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京都と戦争

(1) 幟(英霊迎え) ・「故海軍上等兵木下裕路之霊」

(2) 死亡告知書 ・陸軍兵長中村勉氏が1944(昭和19)年11月13日にビルマにおいてマラリアと脚気によって亡くなったことを知らせる告知書。

(3) 応召幟(親族)

(4) 千人針

(5) 帝国国防大地図

(6) 1937・8年頃、福知山駅前通で、十六師団長の巡視にこたえる二十連隊の兵士。(提供/平和のための京都の戦争展実行委員会)

(7) 1938年頃、福知山駅前通で、戦死者の遺骨をむかえる留守部隊と市民。(提供/平和のための京都の戦争展実行委員会)

京都府内には、伏見に陸軍、舞鶴に海軍が置かれました。「一五年戦争」期には中国やフィリピンに送られ、陸海軍あわせて約55000人の京都府出身の兵士が命を落としました。京都にはもともと陸軍の16師団が置かれていましたが、日中戦争からアジア・太平洋戦争期にかけて新たに編成された師団も沢山ありました。京都市内の16師団の司令部跡は、現在、聖母女学院の本館として使われていますが、福知山では将校の集会所が史料館として使われるなど、当時の戦跡の一部は今も残っています。また、舞鶴には海軍関係の建物が数多く残っている外、海軍病院は国立病院に、また、陸軍病院は赤十字病院になっています。