ここで紹介するコンテンツは、これまで「国際平和ミュージアムだより」や「立命館大学国際平和ミュージアム資料研究報告」で紹介/解説をしてきたものです。
今後少しずつコンテンツを増やしていきたいと思います。
また、ここで紹介しているコンテンツの無断転用を禁止します。活用をご希望される場合は国際平和ミュージアムまでご連絡ください。

立命館大学国際平和ミュージアム

〒603-8577 京都市北区等持院北町56-1
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  • 嵐の中の母子像

    嵐の中の母子像―ミュージアムで逢える彫刻作品

    「国際平和ミュージアムだより」Vol.1-31994年3月20日

    立命館大学国際平和ミュージアムには、「わだつみ像」のほかにも、いくつかの彫刻作品が置かれています。いずれも「わだつみ像」の作者である本郷新氏の作品です。
    「嵐の中の母子像」は戦火にもっとも縁遠いはずの母と子が、戦火のなかで傷つき死んでいったことを思い制作されたものです。ふたりのこども(ひとりはまだ赤ん坊です)を必死で守りながら、嵐の中を突き進んでいく母親。赤ん坊は右手にしっかり抱きかかえられ、うしろから背中にかじりついているもうひとりのこどもには左手がさしのべられています。母親のその太く大きな手足がとても印象的な作品です。(現在、「嵐の中の母子像」はびわこ・くさつキャンパスに移設され、毎年12月に、像前で「不戦の集い」が開催されています。)
    また、2階のギャラリーには、小品3点がおかれています。紛争の渦中で、悲惨な状況に追い込まれた無辜=何の罪もない民衆のすがたをモチーフ制作された作者晩年の代表作です。抑圧されうめき苦しむ人間の姿が、静かに、けれども強烈に、胸にせまります。

    無辜の民シリーズ
  • 電球

    防空電球

    (「国際平和ミュージアムだより」Vol.2-1 1995年1月20日)
    資料番号: 00 01725

    15年戦争末期には、アメリカ軍による日本本土への空襲が烈しくなりました。空襲に備えて、家の明りが外に漏れて、爆撃の目標とならないようにする灯火管制がおこなわれました。部屋の電灯には、黒い布や紙で作った覆いが被せられました。それと共に電球自体も、写真にあるように、周りを黒く塗り、真下の部分のみに光が出るようなものが作られ、「防空電球」と名付けられました。そして、夜は薄ぐらい家の中で過ごさざるをえないという不自由な暮らしをしいられました。

    戦時下には、金属回収ということで、国民から金属製品をあつめて、武器をつくる材料にしました。そして金属製品の代わりに、代用品として、陶製のものが作られ、使われました。しかし壊れやすい粗悪品でした。その例は、湯たんぽ、水筒、アイロン、おろし器、はかりのおもりなどがあります。

    代用品シリーズ
  • 西陣空襲 仏壇の扉

    京都の空襲(西陣空襲、馬町空襲)

    (「国際平和ミュージアムだより」Vol.3-1 1995年9月10日)

    国際平和ミュージアムには京都の空襲を実証する資料があります。京都は、東京や大阪にくらべると規模は小さいのですが、1945(昭和20)年1月16日の馬町空襲を皮切りに終戦までの7カ月間に約40カ所の空襲を受けています。
    1945年1月16日の馬町空襲はB29一機によって、爆弾251発が投下されました。死者41人、負傷者48人、被害家屋316戸、被災者729人。
    1945年6月26日の西陣空襲は午前9時30分頃、B29一機による7発の爆弾の投下を受け、死者約50人、被害家屋292戸、被災者850人。これは出水空襲ともいわれています。そのときの空襲で、寺石さんというお宅の家屋は全壊しました。唯一残ったのが、写真の仏壇の扉です。

    また、ここに紹介している鉄の塊や爆弾の破片は、単なる「もの」ではなく、歴史の証として平和を願う人々の思いを背負い、私達に過去の歴史を語り続けてくれています。

    200キロ爆弾の破片・被災した仏壇のかね
  • 嶋さんの奉公袋

    嶋さんの奉公袋

    (「国際平和ミュージアムだより」Vol.7-2 1999年12月24日)

    嶋さんが招集されて軍隊に入ったのは、昭和12(1937)年9月のことでした。入隊の準備のために、当時京都・深草にあった軍隊用品店で必要なものを購入しました。その一つに写真の奉公袋がありました。(軍隊の服や靴などは軍より支給されていました。)
    奉公袋・・・軍隊では私物は最低限のみ持つことを許可されていました。貴重品入れとして、軍隊手帳などの他に、財布・印鑑・通帳・操典・軍でもらった書類・裁縫セット・お守りなどを入れていました。時代が下がると「戦陣訓」なども入れられるようになりました。
    寄贈いただいた奉公袋には数カ所、血がついています。これは嶋さんの戦友がケガをした時、奉公袋に包帯を入れていた嶋さんが手当をしていて付いたものということです。
    今回は奉公袋を寄贈いただく時に、嶋さんからお話を伺うことができたのですが、戦争が終わって50年以上がたっても、当時の出来事だけでなく地名や日付など、戦場での日々を事細かく覚えておられるのに驚きました。それだけ戦争というものがもたらした経験が大きなものであったことを実感しました。

  • 肉弾三勇士の像

    (「国際平和ミュージアムだより」Vol.8-2 2000年12月25日)

    戦時下、無名の三兵士が「勇士」へとまつりあげられる事件が起こりました。1932年2月22日の第1次上海事変でのことです。上海郊外にある廟巷鎮攻撃時に第24師団の野戦工兵3人が点火した破壊筒(爆弾)を抱えて中国側の鉄条網陣地に突入し、自らの爆死によって突撃路をひらいたといわれています。この事件を大阪朝日新聞社や大阪毎日新聞社などジャーナリズムはこぞってとりあげました。朝日新聞・毎日新聞の二社は三勇士の歌を公募し有名歌手に歌わせ、レコードを発売するなどし、美談にする役割を果たしました。毎日新聞の「爆弾三勇士」は歌人の与謝野寛(鉄幹)が作詞したものです。

    現在では、三兵士の死について“覚悟の自爆”ではなく作戦の失敗による事故死であるということが定説となっています。抱えていた破壊筒(爆弾)の導火線が短かったためといわれています。しかし、この三兵士が「肉弾三勇士」として美談になり色々な芸能でとりあげられた事は芸能が戦争期に利用される大きな引き金となりました。

    肉弾三勇士
  • カンボジアの地雷関係資料

    (「国際平和ミュージアムだより」Vol.9-1 2001年8月24日)

    カンボジアの地雷による被災児に車椅子や松葉杖などをおくる活動をしているNGO「地雷による被災児を救う会」(代表 福井清氏)から多くの資料を寄贈いただきました。これらの資料は常設展でも展示しています。
    義足がありますが、フランスのNGOがつくって贈ったものとともに、現地で、砲弾の薬莢や自動車のタイヤなどを再利用してつくったものもあります。
    松葉杖にもいろいろな形のものがありますが、やはり、現地で材料を工夫して制作したものがあります。車椅子にも、同じように廃品を活用してつくったものもあります。
    地雷そのものは、ロシア製、中国製など、さまざまありますが、いずれも実際に埋められていたものであり、掘り出した後、火薬を抜くなどの処理をしたものです。

    以下にジャーナリストの筑紫哲也氏からいただいたメッセージの一部を紹介します。「兵器は全て凶悪な人殺し道具なのだが、なかでも地雷が「悪魔の兵器」と呼ばれるのは、戦間、戦争が終わった後も、しかも装備した戦闘員よりも、フツーの人たち、子どもなど非戦闘員に犠牲を出し続けるからである。」

    カンボジア地雷資料
  • 世界の子どもの平和像・京都

    世界の子どもの平和像

    (「国際平和ミュージアムだより」Vol.11-1 2003年8月25日)

    「世界の子どもの平和像・京都」は、高校生を中心とする「世界の子どもの平和像を京都につくる会」の運動によってつくられたもので、2003年5月5日に国際平和ミュージアムに設置されました。(像の本体は京都教育文化センター前にあり、ミュージアムに設置されているのは像の鋳造の元となった樹脂原型です。)
    平和像をつくる運動は日米の子どもの連帯から始まります。広島にある「原爆の子の像」のことを学んだアメリカニューメキシコ州の子どもたちが平和学習と募金活動を行い、ニューメキシコ州のアルバカーキ―の美術館前に建てたのが最初です。この経験が1996年広島で行われた原水禁世界大会と全国高校生平和集会で報告され、1999年3月に高校生平和ゼミナールの高校生たちが「日本各地に『世界の子どもの平和像』をつくろう!!」というアピールを出し、2001年5月に東京、8月に広島で像が完成します。
    京都でも2000年2月に高校生たちの呼びかけに応えて「世界の子どもの平和像を京都につくる会」が結成され、学習会、フィールドワーク、署名活動を展開し、像設置に向けた取り組みが進められました。

    「平和を願わない人はいません 平和への願いを 京都からアジアへ 折り鶴は  未来へはばたき 折り亀は 慰霊の使者となる ゆっくりでも力強く 前に進み 手を取り助け合う 私たち子どもが 自由に安心して遊べる世界を ここから 確実に創り上げていきたい」

  • 防毒面のカフスボタン

    (「国際平和ミュージアムだより」Vol.17-1 2009年8月11日)

    カフスボタンとは、ワイシャツやブラウスの袖口を留めるボタンのことです。17世紀のヨーロッパでは、袖口に飾りをつけるために用いる上流階級のオシャレでした。19世紀になると、一般の人びとの間でも使用されるようになり、ダンディな紳士のたしなみというイメージが定着したようです。カフスボタンは和製英語で、英語ではカフリンクスと言います。
    ガスマスクは科学物質などに汚染された環境での作業や、毒ガス攻撃を受けた際に着用するものです。日本の歴史の中で防毒面が大量に生産されはじめたのは昭和10年代、化学兵器による攻撃を想定してのことです。国民向けには、空襲に備える防空活動の中で毒ガスに対する教育が行われました。民間向けの防毒面も生産され、家庭でも防毒面を購入して備えるよう勧められましたが、一世帯にひとつというものでした。また、当時を知る人々からは、息苦しくて10分もつけていられなかった、高価で買うことができなかったという話も多く聞きます。

    防毒面をカフスボタンという小さな装飾品にすることにより、日常生活の中に防毒面とそれが象徴する化学兵器が持ち込まれ、人々の中に受け入れられていく役割を果たしたと言えるかもしれません。

    防毒面のカフスボタン・防空用防毒面
  • セロハンポスター「国語全解運動」

    (「国際平和ミュージアムだより」Vol.18-2 2010年12月10日)

    セロハンポスターとは、セロハンでできた小型ポスターです。電車や店の窓に貼って宣伝や広告を行うためのもので、1930年代に実用化されました。商品宣伝にも使われましたが、プロパガンダが大量に流れる時代にあって、国策の宣伝にも利用されました。
    セロハンポスター「国語全解運動」は、咸興府(現在は北朝鮮)で国民精神総動員運動の一環として、日本語の普及を促すために配布されたものです。朝鮮半島では1906年に日本の保護国となった時に日本語教育が始まり、1910年の植民地化以降は日本語が「国語」として教えられました。1944年から朝鮮において徴兵制が施行される決定を受け、朝鮮半島出身の兵士との速やかな意思疎通と、命令に従って命をも捧げる「皇民化」の徹底のため、朝鮮総督府と国民総力朝鮮同盟は日本語普及政策の強化に乗り出したのです。
    このセロハンポスターには国民総力咸興府同盟とあり、咸興府において国語全解・常用運動の周知のために配布されたものでしょう。
    国際平和ミュージアムでは81枚のセロハンポスターを収蔵しています。

    セロハンポスター
  • アウシュヴィッツで殺害された子どもの靴

    アウシュヴィッツで殺害された子どもの靴

    (「国際平和ミュージアムだより」Vol.22-2 2014年12月5日)

    シャフト(足首から上)部分が折れ曲がってつぶれていますが、この資料は皮製の編み上げショートブーツです。70年以上の歳月による経年変化で、縮んでいる筈ですが、それでも大きさから子ども用であることがわかります。この靴をはいていた子どもの名前も、生まれた年や場所も、どのような人生を歩んだのかも、わかりません。ただ、この資料がアウシュヴィッツに残されたという状況から、持ち主はここで命を落としたことがわかります。
    アウシュヴィッツは、ナチスドイツが作った強制労働と殺害のための収容所でした。1940年から45年の間に、約130万人がアウシュヴィッツに送られ、約110万人が殺害されたとみられています。

    持ち主は家族と共に直接アウシュヴィッツに送られてきたか、すでに家族から引き離されてチェコのテレジンシュタットなど子どもを収容する施設から送られてきたのかもしれません。ただ、労働に適さないため、到着したプラットフォームでの選別の後に、鉄条網で囲まれた道を追い立てられ、ガス室で殺害されたと推測できるのみです。

  • 日本の皆様

    (「国際平和ミュージアムだより」Vol.23-1 2015年8月21日)

    これは、1945年8月に、アメリカが日本の都市に撒いた伝単(敵軍将兵や国民の戦意を低下させたり、投降を促すために、あるいは味方の戦意を高揚させるために作られた宣伝ビラ)です。
    この伝単の表面には、8月9日付けで日本政府が天皇の君主統治者としての権利(いわゆる国体の護持)が認められればポツダム宣言受諾の用意があることを連合国に申し入れた公式通告の日本語訳が、裏面にはアメリカ政府が8月11日付けで回答した内容が印刷されています。連合国側は、降伏後の日本の統治権は連合国の最高司令官の下に置かれること(降伏と占領)と、日本政府の体制は、自由に表明された日本国民の意志によって定められるものとなる(民主主義)ことを説明しています。

    当時、このような伝単は、防諜上問題があるとされ、保管していることがわかれば厳しく追及されるものでした。しかし、戦争末期には米軍が撒いた伝単の予告通りに都市空襲が行われたことなどから、人々は伝単を信じるようになっていたとも言われています。

    日本の皆様
  • 愛国いろはかるた

    愛国いろはかるた

    (「国際平和ミュージアムだより」Vol.21-1 2013年8月23日)

    絵札、読み札それぞれ47枚あり、カラー印刷されています。
    『愛国いろはかるた』は、1943(昭和18)年12月に、情報局認定、社団法人日本少国民文化協会制定のもと、社団法人日本玩具統制協会が発行したものです。
    このかるたは、子どもたちに国の政策と遂行中の戦争に賛同する意見も持たせることを目的に作られたものです。12月の発行は、お正月に遊んでもらうことも前提ですが、かるた同様にお正月の定番である百人一首にも、戦意高揚や天皇への忠誠を詠った和歌による『愛国百人一首』が発行されていました。

    かるたの最初の5枚の札を見てみましょう。(文面は漢字に置き換えています)

    イ 伊勢の神風 敵国 降伏
    ロ 炉端で聞く 先祖の話
    ハ 「はい」ではじまる ご奉公
    ニ 日本晴れの 天長節
    ホ 誉れは高し 九軍神

    ご奉公:この文脈では、国のために尽くすことをさしています。異議を唱えず従うことが基本だったことがわかります。
    天長節:天皇の誕生日のことです。
    九軍神:真珠湾攻撃の際に戦死した9人の軍人は、命を捨てて攻撃したとして軍神とされました。

  • グリーンハムコモンのバンド

    グリーンハムコモンのバンド

    (「国際平和ミュージアムだより」Vol.25-1 2017年8月18日)

    髪の乱れや髪が顔にかかることを防ぐための装身具を「ヘアーバンド」や「カチューシャ」と言いますが、これらは日本だけの呼び方です。ヘアーバンドは和製英語、カチューシャはトルストイの『復活』の登場人物に由来するようです。こうした装身具は古くからあり、古代ローマにも見られました。
    この資料は、1980年代に流行していたスポーツ用バンドと同様の形ですが、ウールの毛糸を編んで作られています。若草色、紫色、白を基調にしたこのバンドに編み込まれている「Greenhan Common」の文字は、1981年にイギリス南部のグリーンハムコモン空軍基地の西側に巡航ミサイルが配備されることに反対する女性たちが基地周辺で反対運動のキャンプを展開した、グリーンハムコモン女性平和キャンプを表すものです。
    このキャンプは女性のみによる運動団体でしたが、長年にわたり基地周辺でキャンプをはって多様な活動をしたことから周辺住民との関係が悪化したこともありましたが、2000年に解散されるまで19年間にわたる反対運動を展開しました。

  • 弁当箱

    弁当箱

    (「国際平和ミュージアムだより」Vol.25-3 2018年3月2日)

    この弁当箱は、広島県立広島工業学校1年生だった生田裕壮(いくたゆうそう)さんが使用していたものです。1945年、広島市内では多数の学校の中学1年生や2年生が空襲による建物の類焼を防ぐために建物を撤去する建物疎開の作業に動員されていました。広島県立広島工業学校の1年生も8月1日から10日間の予定で動員されており、8月6日、祐壮さんは同級生たちと共に朝から中島新町(爆心地から約700m)で作業をしていたところ、原爆が投下されました。この場所にいた190名近くの1年生と引率教員は亡くなりました。
    被害の状況は悲惨で、無数の遺体から個人を判別することが難しいため遺骨を手にすることができない遺族も多数いました。祐壮さんの両親も祐壮さんを見つけることはできませんでしたが、惨状となった作業現場で唯一見つけることができたのが、祐壮さんの弁当箱です。母ハツエさんがその日の朝、祐壮さんのためにつめたおかずが入っていたため、祐壮さんのものであることがわかったということです。
    この弁当箱は、2017年12月にICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)がノーベル平和賞を受賞した際に、ノーベル平和センターで開催された展覧会「BAN THE BOMB」で展示をしていました。

  • カメラ

    カメラ Nikon −ベトナム戦争を取材した石川文洋氏のカメラ−

    (「国際平和ミュージアムだより」Vol.26-1 2018年8月3日)

    写真家の石川文洋氏は、1965年1月から68年12月までの4年間ベトナムに滞在し、ベトナム戦争の戦場やベトナムの人びとを撮影しました。このカメラは、この間に石川氏が使っていたニコンF4台のうちの1台です。
    ニュース映画製作をしていた石川氏は、二十代半ばで仕事を辞め世界一周を目指していた旅の途中、香港でカメラマンの助手となりました。トンキン湾事件の取材に同行してベトナムを訪れた際に、ベトナムの風土や人びとの魅力、世界中から集まるジャーナリストや。最前線基地での取材に刺激され、フリーで取材を続けることになったといいます。はじめに中古のライカを購入し、その後ベトナムの下宿先の主人から送られたニコンFと、2台のカメラが石川氏のベトナム戦争取材のカメラとなりました。
    以下に資料寄贈の際に石川氏から伺った話を紹介します。
    「撮影していた私はファインダーを覗いて、ずっと撮影しているから、考える時間はありません。もうずっと弾は飛んでくるし、殺したり、切ったりしているからね。だから、後から考えると、そういったものが戦争の現実なんだなと・・・戦争というのは殺し合いであると。民間人が犠牲になる、それから個人や公共の財産が破壊される・・・それから自然も破壊されます・・・それから文化財が破壊される。これはもうどの戦争でも同じなのですよね。私のふるさとの沖縄もそうです。」

  • のぼり

    のぼり(福島啓氏氏関係資料群)

    (「国際平和ミュージアム資料研究報告」第2号 2018年3月10日)

    「違憲の軍事費を民間戦災傷害者の補償に廻せ!!」の文言が目を引くこの幟は、元名古屋弁護士会会長、伊藤静雄弁護士の事務所の2階の窓に掲げられていたと伝えらえるものです。ここに記された「違憲の軍事費」とは自衛隊に対しての防衛費のことを意味しているのでしょう。
    伊藤氏は1972(昭和47)年10月、国に対して税金支払い停止権確認の裁判を起こした弁護士でもあります。違憲状態にある防衛費に対して、一納税者が支払った税金を停止する権利があるとの確認を求めたもので、自衛隊に対して税金を支払うことを拒否することで良心的兵役拒否の意思表示をしたと言われています。学徒出陣をした経験から戦争に巻き込まれたことへの憤りと、自衛隊が憲法違反であるという状態を許すことができず起こした裁判であると自ら説明されています。伊藤氏らの訴えは、1980(昭和55)年名古屋高裁の判決で棄却され、自己の政治信条を実現しようとするものとして批判されました。
    この幟は、当館の常設展で展示しています。

  • 出水空襲時の爆弾の破片

    出水空襲時の爆弾の破片、罹災証明書(複製)

    (「国際平和ミュージアム資料研究報告」第3号 2019年3月8日)

    1945(昭和20)年6月26日、京都市上京区西陣付近が被災した空襲(西陣空襲)の関連資料です。西陣空襲による被害状況は京都市内で最大規模のもので、死者約50名・負傷者66名以上、家屋倒壊や道路の陥没などの被害が多数発生しました。
    出水空襲時の爆弾の破片は「平和のための京都の戦争展実行委員会」による寄託資料で、250キロ爆弾の破片(縦130mm、横115mm、高さ20mm)と伝えらえています。
    罹災証明書は西陣空襲で被災した住民の家財損失を証明する書類です。罹災証明書は、地震や洪水などの自然災害による被害を自治体が調査し作成するもので、戦災にも適用されました。中央より左側には、罹災を理由に滋賀県大津市へ移転することが記され、制限されていた鉄道乗車券の購入や避難先での配給の受け取りが円滑に進むために必要なものであったことが考えられます。

    これらの資料は常設展で公開されています。

    罹災証明書(複製)
  • 『週刊アンポ』

    『週刊アンポ』

    (「国際平和ミュージアム資料研究報告」第3号 2019年3月8日)

    『週刊アンポ』は小田実が編集長兼発行人となり、1960年に批准された日米安全保障条約(安保)の自動延長反対、条約破棄を目指して1969年に創刊された週刊誌(全16号)です。
    0号から12号までは、全頁下部に「安保フンサイへ・人間の渦巻を!」の文言があります。「人間の渦巻」という言葉は、小田が代表を務める運動体「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」の理念を色濃く反映しています。ベ平連は規約を持たず、参加する市民の自発性、自律性を重んじた平和運動であり、共通の目的をもつ「ふつうの市民」の活動を志向して、多様な層を取り込んだ安保破棄運動へとつながることを期待したものでした。
    反安保、沖縄、自衛隊、反戦市民運動などをテーマに、新進気鋭の芸術家、作家によるイラストや小説のほか、高校生ら若年層を含む読者による投稿にも一定の紙面をさいていました。13号からは市民運動の原点に立ち返るためビラ形式へと姿を変えました。
    1970年6月の安保条約自動継続決定後、終刊しました。

  • 日本軍が中国でまいたチラシ

    「私の紹介する ミュージアムこの1点」
    日本軍が中国でまいたチラシ

    (第133回ミニ企画展示「戦後75年特別企画 ミュージアム・この一点」 WEB展示)

    日本が戦争中に中国で何をしたかについて、誰もがある程度理解していると思います。彼らは無実の人々を残忍(ざんにん)に殺し、生きている人々を実験対象として扱いました。これら多くの犯行について語れば、みな当時の日本を憎むでしょう。しかし、当時の日本には大きな野望があり、中国を確実に押さえることができると感じていたため、残酷(ざんこく)さを隠し、人々に愛してもらうために、多くのポスターやちらしを作成しました。
    この資料も当時の日本が作成した宣伝用ちらしの一つです。この絵を見ると、中国側の軍閥、中国共産党が組織した軍隊(中国工農紅軍(こうのうこうぐん))についた民衆は自滅の道しかいないと書かれていることに対し、日本側についた民衆は、安楽な日々を送ることができると書かれています。これらの絵は実際の状況と一致しておらず、現代の我々がみると、むしろ強烈な皮肉を込めた絵としか捉えられません。歴史の真実に向き合って戦争の残酷さを理解することで真の平和に繋がると信じています。だから、このような捏造された歴史を通じて皆さんに本当のことを語っていきたいと思います。

    ミュージアム学生スタッフ 李文強

    日本軍が中国でまいたちらし
  • 通行証

    「私の紹介する ミュージアムこの1点」
    通行証・投降票

    (第133回ミニ企画展示「戦後75年特別企画 ミュージアム・この一点」 WEB展示)

    右のビラでは、描かれた中国旗が五色旗であることから、居留民(きょりゅうみん)保護を名目とした山東出兵時の日本軍が、北伐の国民革命軍を敵とみなし投降を勧告しています。左のビラでは日中戦争時、投降して捕虜となることを軍規上許されず、一身の恥として死戦した日本兵に対して、中国軍が通行証と表記して戦線離脱を促しています。これは当時日本から中国に逃れ、日本兵捕虜による反戦運動を組織した鹿地亘(かじわたる)氏や野坂参三氏の資料などで裏付けされています。
    一五年戦争で日本は数多くの戦争法規の無視や不法行為を行いました。この資料は、日本の戦争のために現地の人的、物的資源を収奪した苛酷な軍事的支配の実相、兵士に死戦を強いた日本の軍事国家、組織の構造と戦場での悲惨な被害と加害の事実、国際軍事裁判で、戦争の指導者のみならず多くの兵士が処刑され、今なお未決の戦争責任を残していることなど、一五年戦争中の日本軍の行為と、現代まで続く問題について、広く深く理解するための扉を開くものです。

    平和友の会 村尾孝

    通行証・投降票
  • 心臓防護板

    「私の紹介する ミュージアムこの1点」
    弾よけ胸あて(心臓防護板)

    (第133回ミニ企画展示「戦後75年特別企画 ミュージアム・この一点」 WEB展示)

    この胸当てを見て、あなたは何を考えましたか。この胸当てに掘られた文字と胸当ての意義に矛盾を感じる人、この胸当ては無駄だと感じる人、何故胸当てが贈答(ぞうとう)品として存在していたのかと考える人、など色々あると思います。
    私はここで働くなかで、様々な人に出会い、「戦争」や「平和」についての考えを尋ねたり、自分なりの考えを言ったりしています。その中で私が感じたことは、この胸当てを見て感じたことが人それぞれであるように、「戦争」や「平和」に関する意見は人によって色々あるということです。そして、自由で答えのないものであるということです。さらに、そうやって様々な考えの人と話すことによって戦争や平和への見方が広がっていくということです。私はそれを面白いなと思いました。そして、平和について考えるということ、このように人の考え方を知ることだと考えるようになりました。私は、ここ、国際平和ミュージアムに来る方には、是非、隣人(りんじん)と平和について話す機会にして欲しいと願って働いています。

    ミュージアム学生スタッフ I

    弾よけ胸あて(心臓防護板)
  • 興亜ナカヨシスゴロク

    「私の紹介する ミュージアムこの1点」
    興亜ナカヨシスゴロク

    (第133回ミニ企画展示「戦後75年特別企画 ミュージアム・この一点」 WEB展示)

    この資料は、『幼年倶楽部』という子ども向け雑誌の付録の「まわりすごろく」です。それぞれのコマには、バナナを取る子ども、剣道の稽古をする子ども、羊の見張りをする子どもといった、アジアの国々の子どもたちの様子が描かれています。このすごろくは、アジアの勢力を盛んにしようとする「興亜」のため、子どもたちにも、アジアの結束を強めることを印象付けているようです。
    この資料から、戦時中の日本では、大人向けのマスメディアのみならず、子ども向けの出版物や玩具にも、当時の世界情勢や政策が反映されていたことがわかります。少しずつ戦争に組み込まれていく子どもたちの姿を、こうした資料から読み取ることができるように思います。情報や教育が、人々の意識に与える影響の大きさを改めて感じさせられます。

    ミュージアム学生スタッフ 青島繭

    興亜ナカヨシスゴロク
  • 飛行兵と母

    「私の紹介する ミュージアムこの1点」
    飛行兵と母

    (第133回ミニ企画展示「戦後75年特別企画 ミュージアム・この一点」 WEB展示)

    7年前、修学旅行で訪れた沖縄慰霊碑(いれいひ)の前で、自分の書いた平和宣言が読み上げられたとき、自分に出来ることはとても小さいなと感嘆したことを今でも思い出します。ただ平和を祈ることしかできない自分に憤慨(ふんがい)し、非力な私ができることを探して、学生スタッフ活動を始めました。
    活動を始めてから、全国各地の資料館を訪れました。その中でも鹿児島県の知覧(ちらん)特攻平和会館で見た、特攻兵の残した手紙には身が引き締まる思いがしました。私が戦争の歴史に関心を持ったきっかけが「特攻」だったこともあり、今回この資料を選定させて頂きました。
    作戦により戦禍に散った若者たちの想いを、私たちは伝え続ける責務があると考えています。
    平和を創るのは国家でも国連でもなく、一人一人の意識です。戦争の過去を知り、受けた被害のみならず加害責任にも目を向けて、多角的な視点を持って平和を考え続けることが、今の日本人に求められていると強く思います。

    ミュージアム学生スタッフ 中上彩奈

    飛行兵と母
  • 恩賜の短剣

    「私の紹介する ミュージアムこの1点」
    恩賜の短剣

    (第133回ミニ企画展示「戦後75年特別企画 ミュージアム・この一点」 WEB展示)

    ミュージアムに寄贈いただく資料は、それぞれが様々な背景を持っています。この短剣の元々の所有者は斉藤一好さんという方です。一好さんは1938(昭和13)年に海軍兵学校に入学し、3年後の1941年にご卒業されました。当時、海軍兵学校を優秀な成績で卒業した人には天皇から短剣が贈られることになっており、これは一好さんが卒業時にいただいたものです。
    兵学校卒業後は戦艦の乗組員として配属され、日米開戦を迎えます。その後、転属して潜水艦の乗組員となり、特攻攻撃に向かう直前に終戦を迎えました。終戦後、復員した一好さんはご自身の戦争体験から、「戦争と平和」に関心を持ち、弁護士の道を歩みました。二度とあんな戦争を起こしてはならないという思いから、「基本的人権の擁護と社会正義の実現」を胸に、平和についての活動にも熱心に取り組まれました。
    一好さんのご自宅で長年大切に保管されていたこの短剣は、今年ミュージアムへ寄贈されました。日本が戦争ムードに染まっていく過程をその目で見つめた若き日の一好青年は、どのような思いでこの短剣を受け取ったのでしょうか。

    学芸員 篠田祐磨

    恩賜の短剣
  • 全18面の地図の内の1枚。 現在の京都大学吉田キャンパス周辺(京都府京都市左京区吉田)が描かれている。

    「私の紹介する ミュージアムこの1点」
    地図:CITY OF KYOTO KYOTO PREFECTURE HONSYU JAPAN

    (第133回ミニ企画展示「戦後75年特別企画 ミュージアム・この一点」 WEB展示)

    英語表記のされた京都市街の地図で、敗戦後連合国軍の駐留(ちゅうりゅう)にともない接収(せっしゅう)された旧軍関係施設や個人の住宅を示しています。
    75年前の1945年から1952年の約6年間、日本は連合国軍によって占領されていました。京都には、現在は商業施設(COCON烏丸)になっている建物に米軍を中心とした第8軍司令部がおかれ、西日本における占領統治政策の中心を担っていました。この地図は私たちの暮らす京都の町にも外国の軍隊がいて占領されていたことを如実(にょじつ)に物語っています。それは翻(ひるがえ)って15年戦争中に日本がアジアの国々に対して行った占領行為を考えることにつながるのではないでしょうか。一方で、京都に進駐軍(しんちゅうぐん)がいなくなった後も1972年まで米軍統治下にあった沖縄や、駐留した軍隊によってそこが朝鮮戦争、ベトナム戦争の前線基地となったことなど、終わらない戦後を見つめるきっかけにもなります。
    武器をもって命のやり取りをすることだけが戦争ではなく、戦争の結果引き起こされることが何なのか。一枚の地図が、平和ミュージアムが収蔵するたくさんの資料とともに伝えています。

    学芸員 田鍬美紀

    地図:CITY OF KYOTO  KYOTO PREFECTURE HONSYU JAPAN
  • 広島の原爆瓦

    「私の紹介する ミュージアムこの1点」
    広島の原爆瓦

    (第133回ミニ企画展示「戦後75年特別企画 ミュージアム・この一点」 WEB展示)

    この瓦は原爆の熱線にさらされた瓦です。原爆の熱線で瓦の表面は4,000℃ともいわれる高温にさらされて泡立ち、ざらざらになりました。瓦の黒い部分は他の瓦の下にあって熱線にさらされなかった部分で、つるつるしています。
    瓦の表面が泡立っているときに空から放射性物質が降ってくれば、そこに捕まります。以前、長崎の瓦の表面からアルファ線を出す放射性物質が検出されました。長崎原爆由来の放射性物質でアルファ線を出す放射性物質といえば、まさに核物質プルトニウムそのものでしょう。瓦はプルトニウムが降ってきたことの証言者だったのです。God is in the detail(神は細部に宿る)という言葉がありますが、資料の細部に本質が宿る可能性について、この資料は教えてくれました。

    国際平和ミュージアム名誉館長 安斎育郎

    広島の原爆瓦
  • さいころくん

    「私の紹介する ミュージアムこの1点」
    さいころくん

    (第133回ミニ企画展示「戦後75年特別企画 ミュージアム・この一点」 WEB展示)

    当館2階の「平和をもとめて」をテーマとする平和創造展示室は、なかなか立体的な展示物を置くことがむずかしい空間なのですが、そこでとりわけ目立つのが、入ってすぐのところにある「さいころくん」です。銃弾が飛び交うことだけが戦争ではなく、「構造的暴力」の下で多くの人が死んでいっている事実、環境問題では、私達自身が日常的に生命の危険に脅かされていること、あるいは加害者になっていること、人権が蹂躙(じゅうりん)されるところに次の戦争への萌芽があるというようなことは、通常は文章かポスターでしか示すことができません。
    実際、2階の展示は写真とポスターが主です。しかし、これらの情報を分かりやすく図形化し、大きいサイコロ状のものに張り付けたこの立体展示物は、横とか裏とかに何が書いてあるのだろうという好奇心をそそり、かつ、実際にそれらの表示を手にして読み進むことができるという妙味をもっていて、当ミュージアムの「お宝」の一つだと思います。

    国際平和ミュージアム館長 吾郷眞一

    さいころくん