戦後の世界
年表展示
1945 大日本帝国の崩壊と戦後世界の再編
第二次世界大戦は終結し、人びとは戦時下の抑圧や支配から解放されました。
しかし、帝国の崩壊は大きな混乱をもたらしました。
人びとはどのような思いを抱えて戦後を歩み始めるのでしょうか。
東アジアの戦闘終結~帝国崩壊と占領 1945
一般的には、1945年8月15日に日本は無条件降伏し、戦争が終結したとされています。しかし、ソ連軍が侵攻した千島列島・樺太での戦闘が終結したのは8月末であり、戦争は8月15日以降も続いていたのでした。日本の敗戦は他民族を支配から解放しましたが、アメリカとソ連が対立し、東西冷戦が始まると、解放された人びとは国家の分断などの再び大きな苦難を受けました。また、アメリカ軍の占領下に置かれ、非軍事化と民主化を柱とする戦後改革が実施された日本本土では、その後、再軍備が図られるなど占領政策は転換されました。
京都の占領 1945
戦後、京都に進駐した占領軍は司令部を大建ビル(現在の「COCON KARASUMA」)に置き、軍政部は京都府庁に入りました。当時、岡崎公園には占領軍の宿営地、植物園には上級将校と家族の住宅が建設されています。また病院や一部の教育施設、百貨店、工場などの接収に加え、慰安施設を含む占領軍用設備の建設、英語による道路表記により、市内の風景と住民の日常生活は大きく変化しました。
復員・引揚げの開始 1945
敗戦時、海外には軍人・軍属約367万人、民間人約321万人がいたと推計されています。軍人・軍属の日本への帰還を「復員」、民間人の帰還を「引揚げ」と呼んでいます。引揚げは、アジア太平洋地域から日本の影響力を完全に排除するというアメリカの意図によって開始されました。
外国人登録令 1947
戦後、1947年時点で、約60万人の朝鮮人が日本に残留していました。彼らは民族団体を結成し、生活維持や子どもの教育活動を始めます。しかし、日本政府は新憲法施行直前の勅令で、外国人登録令を公布・施行しました。これは、従来「日本人」として扱われてきた旧植民地出身である朝鮮人・台湾人を「外国人」に指定し、参政権などの諸権利を停止して日常的な管理・監視の対象としたことを意味しました。
戦後体制の理想~日本国憲法と戦争違法化 1947
東アジアの平和を破壊した日本帝国主義の解体・克服が、連合国による占領改革、日本の戦後改革によって追求されます。そうしたなかで成立した日本国憲法は、非軍事化と民主化政策、国連憲章体制への編入、国民の敗戦体験に根ざした平和国家への希求などの要素が組み合わさったものでした。不戦条約(戦争の違法化)を継承・発展させる国連憲章2条4項(武力不行使原則)と日本国憲法9条は、共鳴し合う内容となっています。
戦争放棄 1947
日本国憲法9条1項は「主権的権利としての戦争」を放棄しており、9条2項は戦力の保持と交戦権を否定しています。徹底した日本の非軍事化・非武装は憲法前文が述べる国家による日本の安全保障とセットになっていますが、この方向性は実現することはなく、日米安保体制(米軍駐留と日本再軍備)と矛盾しながら共存しています。
東京裁判 1946-1948
東京裁判とは極東国際軍事裁判の略称で、日本の戦争指導者たちが連合国によって裁かれました。1946年5月から1948年11月まで開かれ、日本に対する降伏条約に調印した9カ国とインド・フィリピンの11カ国が裁判官を出しています。28名の被告が「平和に対する罪」などで起訴されました。判決では、東条英機ら7名に絞首刑、木戸幸一ら16名に終身禁錮刑、東郷茂徳に禁錮20年、重光葵に禁錮7年の刑が言い渡されました。
婦人参政権 ~女性の「権利」と「役割」
敗戦後の日本社会では、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ-SCAP)の改革指令の下で女性の法的権利の整備が進み、1945年12月には女性に参政権が認められました。翌年4月の総選挙では39名の女性議員が誕生します。また、新憲法では家庭生活における個人の尊厳と両性の本質的平等(24条)がうたわれ、民法では家・戸主が廃止、刑法では姦通罪が廃止されました。さらに教育の機会均等を定めた教育基本法も制定されるなど、男女平等の基礎が築かれます。これにより女性たちの人生の選択肢は大きく広がったものの、戸籍法が維持されるなど多くの課題も残されました。
優生保護法 1948
敗戦後、女性の性と生殖をめぐる状況も大きく揺さぶられました。占領軍兵士を対象とする性的慰安施設が開設され、性病予防を理由に街娼たちは強制性病検査の対象となります。また、優生保護法の制定により中絶が「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止」するために合法化されましたが、そこには占領軍兵士との「混血児」の増加への危機感がありました。
1950 冷戦下の東アジアと植民地の独立
植民地が独立を果たす一方、冷戦体制下では新しい国際秩序が形成され、次第に対立を強めます。
戦争の悲劇を繰り返さないために平和を求めた人びとは、
どのように行動したのでしょうか。
冷戦体制の形成と朝鮮戦争~ 世界を巻き込む米ソの対立1950-1953
二次世界大戦後、ヨーロッパを舞台に深刻化した資本主義国家と社会主義国家との対立は「冷戦」と呼ばれ、それは東アジアにも及びます。アメリカとソ連の勢力圏が交錯する朝鮮半島は、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の二つの政権に分断されました。1949年には中華人民共和国(中国)が樹立され、冷戦は深まりをみせます。こうして1950年6月、南北朝鮮の本格的な武力衝突が始まり、米軍主体の国連軍や中華人民共和国の義勇軍も参戦したため、3年に及ぶ過酷な戦争になりました。
朝鮮半島の分断
1948年、北緯38度線を境に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国政府が相次いで樹立され、両政権とも互いに軍事力による統一を目指すようになりました。1950年6月に始まった朝鮮戦争の死者の総計は400万人を超え、南北軍事境界線は今も固定化されたままです。
サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約 1951
日本はアメリカを中心とする西側諸国とのサンフランシスコ講和条約の締結(片面講和)により、占領を終わらせ、主権を回復します。しかし、日本はすべての交戦国との講和(全面講和)をせず、アジア諸国との国交回復や戦争と植民地支配への責任を先送りにしました。また、沖縄・奄美・小笠原は日本から切り離され、アメリカの統治が続きました。同時に結ばれた日米安全保障条約はアメリカ軍の日本駐留を継続させたため、日本の再軍備に対する大衆的な反対運動を招きました。
第三世界の独立~アジア・アフリカ諸国の決断 1940s
20世紀後半、アジアや中東、アフリカの植民地は次々と独立を果たし、アメリカ中心の西側諸国(「第一世界」)とソ連中心の東側諸国(「第二世界」)のどちらにも属さない「第三世界」として、ラテンアメリカ諸国も加えて独自の勢力を形成します。やがて、「第三世界」は、北半球の旧宗主国からなる先進国と、南半球に属した旧植民地からなる発展途上国との間に生じた著しい経済格差(「南北問題」)の解消を訴えるようになります。
水爆実験と第五福竜丸~核戦争の恐怖 1954
1945年8月にアメリカが広島・長崎に投下した原爆は30万人以上の命を奪い、生き残った被爆者も原爆症や差別・偏見に今も悩まされています。1954年、アメリカはビキニ環礁で広島原爆の950倍も強力な水爆実験を行い、近くの海域で操業していた第五福竜丸の無線長・久保山愛吉さんの命を奪いました。これを機に始められた原水爆禁止運動は今日まで続いています。
アジア・アフリカ会議(バンドン会議) 1955
1955年4月、史上初めてアジア・アフリカの29カ国が集まり、国際会議を開きました。インドネシアの開催地名から、バンドン会議とも称されています。会議では、帝国主義、植民地主義への反対や民族自決がうたわれたほか、「世界平和と協力の推進に関する宣言」(平和十原則)が発表されました。この宣言は、「バンドン精神」と称して大国が支配する国際社会にインパクトを与え、東西いずれの陣営にも属さない非同盟運動の礎となります。
世界的な女性運動の展開~声をあげる女性たち 1950s-
第二次世界大戦後、女性による国際的な平和運動が活発になります。1953年、国際民主婦人連盟は平和と女性の権利を議論する世界婦人大会をコペンハーゲンで開き、55年には日本人女性の原水爆禁止の訴えを受けて世界母親大会をローザンヌで開催します。国際連合ではあらゆる分野における男女平等実現のために「婦人に対する差別撤廃宣言」(1967年)を採択しました。
「主婦」「母」たちの運動 1955
日本の女性たちは「主婦」「母」の立場からくらしといのちを守る運動を展開しました。ビキニ環礁水爆実験(1954年)を受け、東京・杉並の主婦たちは原水爆禁止の署名活動を始めます。また、第1回世界母親大会(1955年7月)の準備として、第1回日本母親大会(同年6月)が開かれ、女性の権利や戦争と平和について話し合われました。
1960 冷戦の深まりと平和への問い
ベトナム反戦運動や反公害運動を通じて、人びとは様々な社会問題に目を向けるようになります。
社会の矛盾を克服するために、人びとはどのような声をあげたのでしょうか。
ベトナム戦争~ベトナムに平和を! 1965-1975
ベトナムでは、南にアメリカ政府の支援する政権(ベトナム共和国)が、北に社会主義を掲げる政権(ベトナム民主共和国)が作られ、対立が続きました。アメリカは共産主義化を抑えるとの理由から軍事介入を深め、1965年2月に北ベトナム爆撃と地上戦闘部隊の投入を開始し、ベトナム戦争が本格化します。アメリカは最大57万人の兵士を投入しましたが、ベトナムでのゲリラ戦や国内外の反戦世論の高まりなどにより事実上敗退し、1973年にパリ和平協定を結びます。1975年には南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)が陥落し、戦争は終結します。この戦争は植民地解放闘争のシンボルとなり、西側諸国における反体制運動に大きな影響を与えました。
ベ平連と京都の反線運動 1965
作家・小田実らの呼びかけにより「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」(ベ平連)が結成されました。労働組合や学生運動とは異なる形で市民による運動の場を広げ、世界各地の運動との共同行動、アメリカ軍兵士の脱走援助など幅広い活動を展開しました。京都では、三条大橋での「橋の下大学」など、カウンターカルチャーを取り入れた活動も行われました。
関西のベ平連とハンパク 1969
「人類の進歩と科学技術の未来」を掲げる大阪万博に対抗し、現在の大阪城公園にあたる大阪砲兵工廠跡で「反戦のための万国博」(通称ハンパク)が市民により開催されました。前年には、九州大学に墜落したアメリカ軍戦闘機ファントムの残骸の展示、夜間中学やハンセン病*に関する展示、討論会やフォークコンサートなどを実施し、ベトナム反戦運動と地域運動が結びつくきっかけになりました。
高度経済成長と反体制運動 ~社会の矛盾と市民による運動1970
1950年代後半から70年代初頭にかけて、日本各地の開発、公害問題や環境破壊、人件費の安い農山漁村の若者たちの集団就職、過疎・過密などの矛盾を生みながら、日本は未曾有の経済成長をとげます。日本企業は国内の公害規制が強まると、規制のゆるい東南アジアへと生産拠点を移転させました。生産拠点の移転は日本国内の地方やアジア諸国の人びとに対する搾取や支配に結びついたことから、経済成長や「豊かさ」を根本から問うような運動がみられるようになりました。農民や住民の意思を無視する形で暴力的に強行された千葉県・三里塚での成田空港建設は、戦後民主主義とは何かが問われました。
グローバルに拡がる住民運動 1960s-1980s
戦後の総合開発計画のもとで拡大する社会矛盾や環境汚染は、被害の実態解明と加害者の追及という住民運動にとどまらない「近代」そのものを問う動き─民主主義のあり方、開発と公共性の問題、人間と自然・動物との関係など─を生みました。様々な地域での運動は、全国の支援者の組織や雑誌によって国内外に広いネットワークをつくり、人と人、運動同士をつなげる役割を果たしました。
様々な異議申し立て 1960s-1970s
1960年代後半から70年代前半にかけて、戦後日本社会を根底から問う様々な運動と思想が開花します。学生たちは、社会構造に埋めこまれ、自分たちを抑圧する暴力に対して、アイヌや沖縄の人びと、被差別部落の人びと、障がい者、在日コリアンなどは、日本の差別構造を鋭く問いました。様々な異議申し立ては、アジアやアフリカの植民地解放・独立運動、アメリカの公民権運動、フランスの五月革命などの世界各地の民衆運動と連動・共鳴していました。
沖縄返還 1972
1972年5月15日、アメリカ統治下にあった沖縄は「核抜き・本土並み返還*」という条件で日本へ返還されました。しかし、日米両政府は、沖縄にあった核兵器を有事の際に再び持ち込む密約を結んでおり、極東における沖縄の軍事上の位置づけに変化はありませんでした。沖縄返還は軍事優先の統治政策に反対してきた沖縄の人びとの期待を裏切るものであり、現在も続く沖縄への基地の集中につながっています。
「性(セクシュアリティ)」の解放 ~「生き方」を選ぶ自由 1960s
1960年代の性の解放運動は、世界中で既成の社会秩序や規範を揺るがす若者たちの反乱を生み出しました。とりわけ、1969年のゲイバー「ストーンウォール・イン」への警察の弾圧以降、ゲイやレズビアンの解放運動が活発になり、異性愛主義偏重を批判し、LGBTQの権利を求める声が広まります。また、黒人女性たちやアジア・アフリカの女性たちは、欧米のリベラル・フェミニズムの白人女性中心主義を批判し、90年代以降、差別抑圧の要因としてジェンダー、セクシュアリティ、人種、障がい、社会的・経済的階層の交差をとらえる「インターセクショナリティ」という観点を深めました。
ウーマン・リブ 1960s-1970s
1960年代から70年代にかけて世界中で起こった女性解放運動(ウーマン・リブ)は、「個人的なことは政治的なこと」と宣言しています。女性が日々直面する性差別と闘う新しい運動で、男性の性欲処理の役割や子を産み育てる役割など「女であること」と「母性」のあり方を問題にしました。最も権利を奪われている女性障がい者たちとともに優生保護法改悪阻止にも取り組んでいます。
1975 脱冷戦への地殻変動
1980年代、世界各地で冷戦体制を突き崩していく「地殻変動」が起こりました。
強固で強力だと思われていた冷戦体制が、崩壊していく背景について考えてみましょう。
国際秩序の変化 ~激動しはじめる世界 1970s-
20世紀末にかけてグローバル化が急速に展開し、多くの途上国では累積債務問題や構造調整政策が強制されたことで人びとは苦しみました。グローバル化と連動する形で国際秩序も大きく変化していきます。ベトナム戦争でのアメリカの敗北、米中国交樹立、イラン・イスラーム革命、パレスチナ国家の独立宣言、天安門事件など、世界のいたるところで国家あるいは地域レベルで旧来の社会秩序が転換する「地殻変動」が本格的に始まります。
中東戦争と石油危機(資源ナショナリズム、南北問題、パレスチナ問題) 1973
1948年のイスラエルの建国はアラブ諸国からの激しい反発を招き、4度の中東戦争を引き起こします。1973年の第四次中東戦争では、サウジアラビアなどのアラブ産油国が、敵対するイスラエルを支援しているとみなされた諸国への石油禁輸措置を発動し、世界規模でのオイルショックの引き金となりました。日本も深刻な燃料不足と急激な物価高騰に見舞われ、政府が高速道路での低速運転や暖房の設定温度調整などを呼びかける事態となりました。
新自由主義の萌芽 1980s-
新自由主義とは権威主義的な国家が民営化・規制緩和などを通じて企業や富裕層を優遇し、市場原理で運営される医療・教育・福祉・生活インフラの利用負担を国民に強いる社会経済政策です。新自由主義は軍事クーデター後の南米チリを皮切りに、イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権、日本の中曽根政権によって大々的に推進されました。
第三世界と反アパルトヘイト運動~虹の国を目指して 1948-1994
1948年から実施された南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)政策に対し、世界各地から抗議の声があがります。そこで重要な役割を果たしたのが、植民地支配から独立したばかりのアジアやアフリカといった第三世界の国々でした。日本では1970年代後半から反アパルトヘイト運動が広がり、南アフリカ製品に対する不買キャンペーンも行われました。
核軍備への抵抗~反核・反原発運動の広がり 1970s-1980s
スリーマイル島原子力発電所2号機の事故は、世界に核エネルギーの恐ろしさを再認識させるものでした。米ソ冷戦体制下のヨーロッパ諸国で、核軍備に対する脅威が身近に迫るなか、人びとは各地で呼応し、連帯して自国の核配備に反対していきます。各国の自治体では非核宣言を定め、核を持ち込ませない行動を表明するようになりました。
アジアの民主化 ~民主主義へと向かう力 1980s-
アジア各国では、工業化と経済成長が進み、権利意識を高めた労働者や市民層が成長しました。さらに、ソ連のペレストロイカ(改革)や中国の改革開放政策により、それまで独裁的な政治体制を支えてきた冷戦体制が緩和・崩壊に向かったことから、各国で複数政党制議会政治や思想・言論の自由を求める民主化運動が広がりました。民主化運動はフィリピンを端緒に、韓国・台湾・中国・ミャンマー・タイ・インドネシアなどに波及していきました。
台湾の民主化
国共内戦で敗れた中華民国の蔣介石総統は台湾に拠点を移し、戒厳令*下の独裁政治を行いました。しかし、民主化を求める市民の声が高まり、1987年に戒厳令は撤廃されます。以後、政治改革が進み、選挙による政権交代も実現しました。二・二八事件など人権抑圧の歴史への真相究明のほか日本植民地支配の功罪も問われています。
韓国の民主化 1987
1961年の軍部クーデター以後、韓国では軍事政権が続きますが、軍政内には日本の植民地支配協力者が多数残っていました。しかし、学生・市民らによる民主化運動は、多くの犠牲を払いながら1987年ついに軍政を退陣に追い込みます。民主化以降、植民地期や軍政期に発生した人権侵害事件の真相究明と清算が進みました。
平和のための戦争展~次世代への継承 ― 戦争の記憶と責任
「十五年戦争」を中心に実物資料や証言の展示を行い、地域の戦争体験を掘り起こし、継承していく市民主導の反戦平和運動の一つです。1976年の和歌山での開催がルーツとされ、1980年代になると東京、大阪、京都をはじめ、全国各地で開催されるようになりました。
歴史教科書問題 1980s
1982年、日本の歴史教科書は日本のアジア侵略を「進出」などと書き換えているとして中国および韓国から外交的な抗議を受けて問題化します。また、1990年代に中高の歴史教科書に記載されていた日本軍「慰安婦」制度は、2000年代に加害者としての日本の歴史を否認しようとする勢力から批判を受けました。これを受け2021年の日本政府の閣議で「従軍慰安婦」や「(朝鮮人労働者の)強制連行」という記述は不適切と決定され、削除、改変されています。
指紋押捺拒否運動 ~日本の公民権運動 1980s
1980年代、在日コリアン社会に人権を侵害する指紋押捺を拒否し、外国人登録制度に反対する機運が生まれます。他のアジア系・欧米系在日外国人とともに国籍・世代を越えて指紋押捺を拒否・留保する者が続出し、その数は1万人に達しました。外国人登録法*による指紋押捺制度は2000年に全廃されましたが、日本人市民の支援者も多数現れ、人権の尊重を求める在日外国人の声に日本社会が共鳴した時代でした。
*外国人登録法
1952年制定。14歳以上の在留外国人(当時その9割は在日コリアン)に2年ごとの外国人登録更新と指紋押捺、外国人登録証の常時携帯を義務づけ、違反者には懲役・罰金などの刑罰まで科した。
テーマ展示
尊厳の回復を求めて
被害の真実を語るにはなにが必要
アジア太平洋戦争終結後、国際社会は戦争責任の追及に動きましたが、真実が抑圧され、心身に傷を負ったまま取り残されていく人びともいました。様々な暴力に向き合おうとする市民の活動は、そのような苦しみのなかにある人びとが尊厳を取り戻すうえで、重要な役割を果たしてきました。
自分の身に起きたことを歳月をかけて語り出す人とその言葉に耳を傾ける人の存在は、やがて周囲や社会を動かし、人間の尊厳を取り戻す道を切り開いていくことになります。