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帝国主義

年表展示

1840 近代日本の出発

日本の近代化は、日本や東アジアにくらしていた人びとにどのような経験をもたらしたのでしょうか。近代化の光と影を考えてみましょう。

アヘン戦争の衝撃 ~東アジア秩序の再編 1840-1842

産業革命を果たした西欧諸国は、東アジアに商品の新たな市場を求めました。とくにイギリスは、清国に輸出したアヘンを同国が没収したことを理由に「アヘン戦争」を起こし、上海などの5都市を開港させました。開港直後の清国は貿易赤字に苦しみ、太平天国の乱*などの社会動乱が起こりましたが、開港都市の経済は次第に復調していきました。また、アヘン戦争によって、清国を中心とした東アジアの伝統的秩序は再編を余儀なくされることとなりました。

日本開国と明治維新 1853

1853年、アメリカのペリー艦隊とロシアのプチャーチン艦隊が来航し、日本に開国を求めました。アヘン戦争で危機感をもった幕府は両国と和親条約を結び、開国に踏み切ります。また、1859年には横浜などの開港地で貿易が始まり、日本も世界の貿易ネットワークのなかに組み入れられます。以後、日本は国内外から政治的な変革を求められ、明治維新へと突き進んでいきました。

外国に渡る人びと

開国後、旅券(パスポート)を得た人びとは留学、労働、移住、興行など、様々な目的で国境を越えていきます。日本が領事裁判権をもつ上海や釜山では日本政府の監督下にある居留民団が、北米・ハワイなどでは県人会や日本人会が組織され、親睦や情報交換を通して同郷意識を強めていきました。


蝦夷地・小笠原島・琉球の領有化 ~国境線を引き直す 1869/1876/1879

近代化は、他者の土地を領土や植民地として抱え込む帝国化の歩みでもありました。明治政府は1869年に蝦夷地を、1876年に小笠原島を、1879年に琉球を正式に編入します(琉球処分)。清国との琉球分割交渉やロシアとの千島列島・樺太をめぐる領土争いが国と国との間で繰り広げられましたが、これらの土地の住人であるアイヌや沖縄の人びとの存在は無視されていました。

人類館事件~ 1903

第5回内国勧業博覧会では北海道のアイヌ、台湾先住民、沖縄人、マレー人などの「生身の人間」を見せる学術人類館が設置されましたが、これは見学者に「文明人」という優越感を与えるものでした。沖縄からの抗議で沖縄出身の女性の展示は中止されましたが、その抗議の内容も、自分たちが劣等視している他者への差別と表裏一体のものでした。

国民教育と国語 1900

1900年、小学校に「国語」科が設置されました。国語科設置には身分や階層、地域などの文化的差異を均質化させる目的が含まれており、「千島から沖縄まで」の均質な言語空間が目指された結果、沖縄などの方言は矯正対象となっていきました。また「国語」は、植民地の人びとの言語を序列化し、現地で日本語学習を強いる暴力性を伴いました。


徴兵制度と富国強兵 ~兵士となる男性たち 1873

近代国家は国民軍(国民による常備軍)を必要としました。「富国強兵」を目指す近代日本は徴兵告諭(1872年)や軍人勅諭*(1882年)により天皇への絶対服従を求め、徴兵令(1873年)以降、満20歳に達した男子を徴兵検査の結果によって徴集します。これにより兵役は成人男性が果たすべき国民の義務となり、「国民皆兵」が進められました。

台湾出兵・江華島事件 1874/1875

日本は近代の始まりとともに、近隣国への軍事的干渉を強めていきます。1874年、台湾に漂着した琉球の人びとの殺害事件を理由に台湾に出兵し、琉球が日本の領土であることを清国に示しました。また朝鮮に対しても、1875年に江華島で日本の軍艦が朝鮮側を挑発して戦闘に至ると、日朝修好条規を結ばせて開国させました。

足尾銅山鉱毒事件

富国強兵政策は、産業の近代化とともに深刻な環境問題を引き起こします。軍事需要を背景に日本最大の銅採掘場となった足尾銅山では、鉱毒ガスと酸性雨で山々の樹木が枯死し、さらに洪水や土壌汚染により農作物と人体に深刻な被害がもたらされました。被害を受けた住民たちは企業や政府に対策を繰り返し訴えましたが改善されることはなく、複数の村が廃村に追い込まれました。


大日本帝国憲法と天皇制 ~天皇主権国家のはじまり 1889

19世紀後半、西欧諸国をモデルに非西洋圏のオスマン帝国や清国、朝鮮などでも立憲主義が模索されます。日本では1870年代から1880年代に自由民権運動が展開され、民間の憲法草案のなかには共和制や女性参政権を定めた案も生まれました。しかし、日本政府はドイツ帝国をモデルに憲法作成を急ぎ、天皇を主権者、国民を天皇の臣民とする天皇大権を定めた大日本帝国憲法を発布しました。


近代公娼制度と家制度 ~身体を管理される女性たち 1872

大日本帝国憲法下の日本は国家が買春を支え、性売買が浸透した社会でした。芸娼妓解放令(1872年)は芸娼妓たちの解放と同時に、自分の意志で性を売るという新たな論理を生み出します。しかし一方で国家は「公娼」制度を創出し、女性にのみ性病検査を義務づけ、府県・警察の管理下に置きました。女性を法的に自己決定ができない者と位置づけた明治の家制度のもとで、家父長が業者と交わした娼妓稼業契約によって女性は人身の自由を奪われます。公許である遊郭は、軍隊の駐屯地や鉄道沿線、植民地などに置かれました。


1894 帝国日本の形成

日清・日露戦争は、台湾や朝鮮などの勢力圏をめぐる戦争でした。

植民地化はそれぞれの地域に何をもたらしたのでしょうか。

日清戦争と台湾・朝鮮 ~アジアにおける植民地帝国の誕生 1894-1895

1894年、朝鮮で甲午農民戦争*が起こると、日清両国は朝鮮に派兵します。しかし鎮静後も日本は撤兵を拒み、朝鮮王宮を占領、さらに清国軍を攻撃して日清戦争を始めました。再蜂起した東学農民軍を鎮圧した日本軍は優勢のうちに朝鮮から清国領土内に侵入し、翌年4月、下関条約が結ばれて講和が成立します。日本は賠償金の獲得に加え、台湾・澎湖諸島などを領土としたことで、アジアにおける初めての植民地帝国となりました。

台湾征服戦争 1895

日清戦争では、日本軍は台湾の植民地化に抵抗する抗日義勇軍とも戦いました。割譲後の台湾では住民の抵抗運動が起こり、アジア初の共和国である台湾民主国が建国されます。これに対し、日本は台北を軍事占領して台湾総督府を設けましたが、抗日義勇軍の強い抵抗は続きました。沿海部の漢人居住地区の占領後も、山岳地帯の先住民をはじめゲリラ的抵抗は1910年代半ばまで続きました。


義和団戦争  ~「扶清滅洋」を掲げて1900

日清戦争の対日賠償金を清国が列強から借り入れたため、列強は清国への経済的進出を強めます。これに対し山東省では「扶清滅洋(清朝を助けて西洋を討ち滅ぼす)」をとなえる義和団が勢力を強め、北京の各国公使館を包囲しました。清国政府は義和団と協力して連合軍を攻撃しましたが、増強された連合軍は北京を占領し、義和団を排除します。1901年、清国は列国と「北京議定書」を締結、多額の賠償金を支払うとともに各国に華北各所の駐兵権を認めました。


日露戦争と満洲 ~拡大する帝国主義 1904-1905

朝鮮半島と満洲(中国東北部地域)の支配権をめぐり日本とロシアは対立を深め、日露交渉が決裂すると、日本は仁川と旅順のロシア海軍を攻撃して日露戦争を始めました。イギリス・アメリカの支持とロシア国内の政治的混乱に乗じて戦争を有利に進めた日本は、日本海海戦勝利の機会をとらえて講和に向かいます。ポーツマス講和条約で日本はロシアから樺太(サハリン)南半分の割譲と旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道とその付属の利権を譲渡され、関東都督府と南満洲鉄道株式会社を設置してこれら清国領土の利権を管理・経営しました。

非戦論とナショナリズム 

日露戦争中には、与謝野晶子が「君死にたまふことなかれ」を発表し、『平民新聞』は人道主義・戦費のための増税反対を主張しました。また、トルストイと安部磯雄の間で反戦メッセージが交わされるなど、後の反戦運動につながる非戦論も社会のなかに広がっていきます。他方、日露戦争後、日本国内では講和条件を不服とする人びとが日比谷焼き討ち事件を起こすなど、排外的ナショナリズムが高まりました。


韓国併合と朝鮮の統治 ~朝鮮支配のはじまり 1910

日本は「韓国併合」条約を押し付け、大韓帝国(韓国)を滅ぼし、朝鮮半島を自国の領土としました。さらに日本は首都であった漢城を「京城」(現在のソウル)と改称し、そこに統治機関としての朝鮮総督府を設置します。朝鮮総督府は日本人の憲兵が警察の任務を兼任する憲兵警察制度を設け、朝鮮語の新聞・雑誌や集会・結社を厳しく制限するなど、権力と武力で民衆を支配する武断統治を実施しました。また土地調査事業を進めて、多くの朝鮮人農民から土地を奪いました。

朝鮮義兵

日清戦争後、韓国はロシアとの関係を強化していきました。これに対して日本公使らは朝鮮王宮に侵入し、親ロシア政策を主導していた閔妃(明成皇后)を殺害します。この事件は朝鮮の人びとに強い衝撃を与え、各地で抗日義兵闘争が始まりました。その後も1905年に統監府が置かれると、韓国全土でそれに反発する動きが強まり、解散させられた韓国軍の軍人たちも合流して組織的な抗日義兵闘争が展開されました。


1914 第一次世界大戦と戦後の変化

第一次世界大戦後、国際的な平和秩序、民族自決、女性の権利への要求が高まります。世界各地で人びとはどのような願いを掲げて行動したのでしょうか。

第一次世界大戦と日本 ~未曽有の大量殺戮 1914-1918

ボスニアで起きたオーストリア皇太子暗殺事件をきっかけに、オーストリア=ハンガリー・ドイツ・オスマン帝国などの同盟国側とロシア・イギリス・フランスなどの協商国(連合国)側との間で戦争が始まりました。日米の参戦や植民地からの動員などにより、戦場はヨーロッパからアフリカ、中東、アジアにまで広がり、世界大戦となります。戦争では戦車・航空機・潜水艦による爆撃、毒ガスや強力な爆薬など近代技術が本格的に用いられたことで、軍人のみならず民間人にも多大な被害を出しました。

総力戦のはじまり

第一次世界大戦は、人的・物的資源のすべてを戦争遂行のために動員する総力戦という形態をとったことに特徴があります。長引く世界大戦は男性の労働力不足を招き、女性は子どもを産み育てる役割に加え労働力を補うことが期待されました。こうした大戦中の女性たちの様々な職場への進出は、戦後、欧米諸国の女性参政権運動へと発展していきます。

ロシア革命とシベリア戦争 1917/1918-1922

食糧不足のロシアでは停戦を求める動きが強まり、1917年に皇帝を退位させるロシア革命が起きました。レーニンらの打ち立てたソビエト政権は社会主義体制の拡大を目指しましたが、社会主義革命の波及を恐れた英米仏日は、連合軍をシベリアに派兵して、軍事介入を行いました。


国際協調体制 ~戦争違法化を目指して 1919

戦争の惨禍は平和への志向をもたらします。第一次世界大戦の講和条約・ベルサイユ条約では、戦争という手段に訴えず国際紛争を平和的に解決するために、国際連盟という国際機関が作られました。また1922年のワシントン会議と1930年のロンドン会議で、海軍軍縮を目的とした条約が採択されました。さらに1925年にはロカルノ条約、1928年にパリ不戦条約*が締結され、これまで合法とされてきた戦争行為が国際法的に禁止される画期となりました。

ILO憲章

国際労働機関(ILO)は1919年のベルサイユ条約第13篇によって設立されました。その憲章前文は「世界の永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立することができる」と述べています。労働運動の高まりにも支えられましたが、ロシア革命を目の当たりにして、西ヨーロッパの資本家が危機感を募らせていたことも影響しています。


民族自決とアジアの民族運動 ~独立への期待と失望 1919

1910年代から1920年代にかけては、植民地の人びとにとって新しい時代の始まりでした。ロシア革命による社会主義国の成立は新しい国家のあり方として注目され、アメリカのウィルソン大統領による民族自決の提唱は植民地でのナショナリズムの動きを広めました。列強の植民地であったアジアでは、欧米へ留学したり植民地官僚として養成された現地の青年が共産主義などの新しい考えを吸収し、ガンディーやホーチミンのように民族自決の運動を担っていきました。

中国五・四運動 1919

パリ講和会議の結果、山東半島のドイツ権益は日本が継承することとなりました。しかし戦勝国の中国にこの決定が伝わると、北京の学生たちは1919年5月4日に抗議デモを行います(五・四運動)。運動は中国各地に飛び火し、商人や労働者も加わる大規模な愛国運動に発展しました。

朝鮮三・一独立運動 1919

民族自決の国際世論が強まるなか、日本の植民地支配下の朝鮮では1919年3月1日に京城(ソウル)で知識人や学生たちが独立を宣言し、朝鮮の独立を求める運動が全土に広がりました。朝鮮総督府は厳しく弾圧し、おびただしい数の人びとが犠牲になりましたが、この運動によって朝鮮総督府は武断統治を緩める方針転換を余儀なくされました。

台湾議会設置請願運動と霧社事件 1921-1930

植民地支配開始直後から住民による武力抵抗が続いていた台湾では、1910年代後半あたりから台湾の自治を目指す政治運動が抵抗の主流となり、1921年以降、台湾議会設置請願運動が展開されます。一方、1930年には台湾中部の山地・霧社で先住民による大規模な抗日武装蜂起が起こり、軍隊と警察による徹底的な弾圧が行われました。


帝国と人の移動 ~内地と外地の移動 1910

日朝修好条規(1876年)で日本が朝鮮を開国させると、釜山に日本人居留地が形成され、商人を中心に多くの日本人が移住し始めました。日清・日露戦争を経て植民熱は加速し、1910年の韓国併合時には在留日本人は約17万人にのぼり、朝鮮総督府の統治のもと日本人が朝鮮人より優越的な地位につきました。一方、土地調査事業などで土地を失い困窮した朝鮮人農民の多くは、日本や満洲への移住を余儀なくされました。

関東大震災と虐殺 1923

1923年9月1日に関東地方をマグニチュード7.9の地震が襲い、死者・行方不明者は10万人以上に達しました。政府は戒厳令をしき、その下で「朝鮮人が暴動を起こす」などの民族差別に基づく偏見に満ちた流言が広められたため、軍隊・警察や住民により組織された自警団によって数多くの朝鮮人や中国人、さらに日本人の社会主義者や労働運動家が虐殺されました。


越境する社会運動 ~連動する世界の社会運動 1920s

第一次世界大戦とロシア革命後、世界各地の民族運動や社会運動は国境を越え、互いに影響を与え合い、活発化しました。日本国内では普通選挙や政党政治を求める政治運動、労働者・農民・女性・被差別部落民の解放と地位向上を求める社会運動が高揚します。また植民地でも民族運動や社会運動が盛り上がり、国際的な反帝国主義運動の一翼を担いました。これに対し日本政府は治安維持法を制定し、社会運動を取り締まりました。

普選運動と女性 1925

第一次世界大戦後の世界的な民主主義、社会主義思想の影響のなかで、日本では納税額による制限選挙を批判する普選運動が高まりをみせます。1925年に男子普通選挙が実現したことで女性たちは「普選より婦選へ」を掲げて参政権獲得運動を展開しましたが、女性たちが参政権を獲得できたのは、アジア太平洋戦争が終わってからでした。

治安維持法  1925

1920年代に大衆的な社会運動が盛り上がると、政府は集会・結社の自由をいっそう制限し、社会運動を取り締まります。1925年に治安維持法が制定されると、特別高等警察(特高)によって正規の手続きによらない検挙や検束、違法な拷問が行われました。さらに治安維持法の拡大解釈や改正が繰り返されることで、戦時中、社会主義者だけでなく自由主義者や宗教団体など様々な思想や運動が取り締まられました。

山東出兵と反帝国主義運動 1927

1926年、中国では蔣介石を中心とする国民政府が再統一を図り、各地の軍事政権の一掃を目的とした北伐を開始します。これに対し日本は山東省権益の維持を狙う山東出兵を行いましたが、他方、国内では分裂していた無産団体が戦争反対で一致し、対支非干渉運動を展開しました。


 

テーマ展示

帝国日本の植民地・占領地

植民地ってどんな場所? どんなくらしをしていたの?

戦前の日本は広大な植民地をもっていました。なぜ植民地が必要だったのでしょうか。また、そこでくらす人たちにどのような影響を与えたのでしょうか。

帝国の拡大と人びとの移動

近代日本は、日清・日露戦争をはじめとする対外戦争を経て、海外の植民地や他民族を支配する「帝国」(植民地帝国)として拡大していきました。帝国拡大の過程では、軍人や官吏をはじめ、商人・教師・労働者・農民など多くの日本人が植民地へと移住しました。また植民地都市の開発や交通機関の発達にともない、日本人による観光も盛んになりました。一方、植民地支配の影響により困窮した朝鮮人が日本や満洲に移住するなど、帝国内ないし植民地間での人びとの移動も増加しました。


日本の植民地支配とアジア太平洋・太平洋地域

日本の植民地支配は、アジア・太平洋地域に、かつてない人の移動を生み出しました。しかし、そうした人びとの国境を越えた出会いは、あくまで植民地のなかの支配と従属の関係を抜きにしてはありえませんでした。日本による植民地支配の歴史は、現代アジアの国際関係やこの地域にくらす個人の人生にも影響を与え続けています。6つの地域の事例を手がかりに、帝国日本のもとに生きた人びとの経験について考えてみましょう。

 

台湾 半世紀におよぶ日本統治時代

日本統治のはじまり

1895年から1945年までの半世紀の間、台湾は日本の植民地とされました。植民地となった台湾では、約600万人の台湾人(漢民族や先住民)に対して約40万人の日本人が生活し、台湾総督府の役人・警察官・教員あるいは企業の経営者や社員として台湾人を支配しました。また台湾は、日本が中国南部や東南アジアへ進出するための「南進」の拠点とされました。

砂糖にみる植民地の収奪

日本は台湾を農産物、とくに砂糖の生産地として期待しました。日本の資本家が中心となり、台湾製糖株式会社などの近代的設備をもつ製糖会社を台湾各地に設立しました。台湾総督府は補助金を与えたり、台湾人農民が作った甘蔗(さとうきび)を安く買える仕組みを作るなどして製糖会社を支援しました。砂糖の生産量は急速に増え、日本が外国から砂糖を輸入する必要がなくなるほど、その多くが日本内地へと移出されていきました。

朝鮮 祖国を奪われた人びと

朝鮮半島の植民地化

1910年の韓国併合条約以降、朝鮮総督府は土地調査事業を進め、所有権があいまいな土地や村の共有地を官有地とし、朝鮮人農民の多くは土地の払い下げを受けた日本人地主などの小作農になりました。日本は19世紀末から慢性的に米不足だったため、総督府は1920年以降、朝鮮産米増殖計画を進めました。しかし、増産分以上の米が日本に移出されたことや、肥料代の重い負担などから生活が困窮し、土地を離れ日本や満洲に移住する朝鮮人農民が増加しました。また1930年代以降になると、日本企業を中心に化学工業や繊維業など工業化が進められ、朝鮮半島は帝国日本を支える役割が期待されました。

植民地化にともなう人の移動

日本の植民地支配のもとで生活に困窮した朝鮮人は、朝鮮半島以外の地に生きる道を求めなければなりませんでした。日本内地に渡った朝鮮人は、1939年の労務動員計画開始以前に約80万人に達し、日本内地で終戦を迎えた在日朝鮮人は強制連行者を含めて約200万人にのぼりました。また隣接する満洲に移住した朝鮮人も多く、在満朝鮮人は150万人を超えました。これに対して日本人の移住も進み、敗戦までに約70万人もの日本人が植民地支配や経済活動などのために朝鮮半島へと移住しました。

南樺太 繰り返された民族の移住と追放

移住と追放の地

サハリン島(樺太島)の樺太アイヌをはじめとする様々な民族は、樺太・千島交換条約や20世紀前半の三度の戦争(日露戦争・シベリア戦争・日ソ戦争)の結果、日本とロシアの間で何度も国境線が移動したことで、たびたび移住と追放を余儀なくされました。1905年のポーツマス条約でサハリン島の北緯50度線以南が割譲されたことで、日本の植民地・南樺太が成立しました。日本は同地のロシア住民をほとんど追放して、新たに日本人や朝鮮人を移住させました。同地では漁業、パルプ・製紙業、石炭業などが発展し、居住人口は最盛期には約40万人に達しました。

サハリン島の戦後

1945年の日ソ戦争で南樺太はソ連の軍事支配下に置かれました。同地から大多数の日本人や少数民族などが追放された一方で、朝鮮人の多くは戦後も長らく残留を余儀なくされました。また1951年のサンフランシスコ平和条約で日本は南樺太の領有権を放棄しました。樺太アイヌの人びとは未だに自分たちの先住地に戻れない状況が続いています。

南洋群島 帝国支配に翻弄された島々

植民地の開発

第一次世界大戦に参戦した日本は、赤道以北のドイツ領ミクロネシアを「南洋群島」と名づけて占領し、1922年からはパラオに南洋庁を置いて国際連盟の委任統治領として統治しました。最初に大規模な開発が行われたのはサイパン・テニアン・ロタです。半官半民の南洋興発株式会社がこれらの島を台湾に次ぐ砂糖の島に変貌させました。1930年代半ば以降は、国策会社の南洋拓殖株式会社が資源豊かな東南アジアに近接するパラオを「南進」の拠点とする開発を進めました。

支配と被支配のはざまで

1942年当時、南洋群島には現地住民5万2000人、日本人8万6000人、朝鮮人6000人、外国人98人がくらし、日本人のうち5万人は沖縄出身者でした。南洋興発が甘蔗栽培に慣れた沖縄出身者を積極的に募集したからです。次第に「一等国民 内地人、二等 沖縄人、三等 朝鮮人、四等 島民(現地住民)」とする見方が広まり、沖縄と朝鮮の人びとは差別されつつ差別する複雑な立場に置かれました。1944年には日米両軍が群島全域を戦場にしたため、多くの人が犠牲になりました。

満州 「王道楽土」「民族協和」の現実

満洲と日本人

20世紀初め頃の満洲には、中国人・朝鮮人・日本人・ロシア人・先住民族など多民族がくらしていました。人口の大部分を中国人が占めていましたが、満洲事変以降、日本人の移住が本格化し、1945年時点で約155万人に上りました。その多くが南満洲鉄道株式会社(満鉄)をはじめとする企業の社員・技術者、中小商工業者、官吏など都市生活者でしたが、農村部にも約27万人の満蒙開拓団の人たちが入植しました。

満蒙開拓団

満蒙開拓団は、過剰人口に苦しむ日本農村の救済策として、あるいは満洲国の国防・食糧増産など多様な政策意図のもと国策として推進されました。村ぐるみの分村移民が奨励され、日本全国の村から移民が送出されています。入植地では、日本人移民が地主として中国人を使役する立場になりました。しかし、敗戦前後にはソ連軍の攻撃など現地の混乱もあり約8万人が亡くなりました。また、推定で1万人を超える中国残留孤児・残留婦人と呼ばれる人びとを生み出すことになりました。

東南アジア 「大東亜共栄圏」終わらない支配と収奪

日本の占領がもたらしたもの

19世紀より欧米の植民地支配が本格化した東南アジアは、アジア太平洋戦争期になるとタイをのぞく全域が日本に占領されました。日本は石油・ゴムなどの戦争資源を確保するために、欧米の植民地支配の仕組みを利用しながら各地で軍政をしきました。日本による占領のもとで、東南アジアでは、労務者(ロームシャ)や食糧の供出が強いられ、飢餓や虐殺、戦災などによって、650万人以上の人びとが亡くなりました。東南アジアの占領には軍官民合わせて約165万人にも及ぶ日本人が関わり、台湾や朝鮮からも多数動員されました。

「独立」を求め続けて

東南アジアではすでに20世紀初頭から、欧米の植民地支配からの解放を求めて、独立運動が開始されます。第一次世界大戦後の「民族自決」の機運のなかでは、自治や脱植民地化にむけた一定の進展もみられました。このように長年続けられた民族独立運動の延長線上に、1943年に日本もフィリピンとビルマ(ミャンマー)に形式的な「独立」を認めざるを得なくなりました。日本の占領下では、将軍アウンサン率いるビルマ国軍など、東南アジア各地で日本への協力と抵抗のはざまで、真の「独立」が模索され続けていました。

植民地の観光

植民地の獲得は旅行先の拡大を意味しました。日本と植民地を結ぶ船舶や鉄道が整備され、観光目的で植民地を訪れる人びとが増加します。日本では1912年に旅行斡旋機関(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)が設立され、割引切符の販売や旅行情報の提供に力を入れました。とくに満洲は修学旅行先としても人気があり、多くの学生が現地で見聞きしたことを書き留めています。このように植民地は、日本の軍人・官僚・経済人・移住者だけでなく、観光客も訪れる場所だったのです。