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十五年戦争

年表展示

1931 満洲事変とファシズムの席捲

満洲事変後、日本は中国大陸に軍事的・経済的に進出し、いわゆる「十五年戦争」に突入します。

第一次世界大戦後の国際協調体制の崩壊は、どのような亀裂から生じたのでしょうか。

世界恐慌 ~揺れ動く国際協調体制 1929

1929年の株価暴落による金融危機をきっかけに、アメリカは深刻な不況に見舞われました。ヨーロッパ諸国も、第一次世界大戦後の復興をアメリカ資本に依存していたため打撃を受けます。恐慌は欧米の植民地をも巻き込みつつ世界へと広がり、日本も昭和恐慌と呼ばれる経済危機に見舞われました。


イタリア・ドイツのファシズム政権 ~ヨーロッパにおけるファシズムの拡大 1930

第一次世界大戦後、ヨーロッパは深刻な政治的・経済的危機に見舞われました。とりわけ近代国家の形成が遅く、経済的基盤が弱かった国々では、インフレや失業、貧困などに人びとが苦しみます。こうした状況を受け1920年代以降、イタリアやドイツでは強力なリーダーシップをもつ独裁者が反議会制民主主義と反共産主義を掲げて登場し、国籍や思想が異なる人びとを暴力的に排除しながら政策を進めるファシズム政権が次々と誕生しました。

反ファシズム人民戦線の成立

拡大するファシズムに対し、共産主義者と社会民主主義者が連携した反ファシズム人民戦線の結成が各国で進みます。1936年にはスペインとフランスで人民戦線内閣が誕生し、コミンテルン第7回大会でも統一戦線戦術が採択されます。しかし内部対立や内政干渉によって長続きせず、日本でも政府に弾圧され(人民戦線事件)失敗に終わりました。


満洲事変と関東軍~戦争への熱狂的な支持 1931

1927年の山東出兵や翌年の張作霖爆殺事件など日本軍の軍事行動が相次ぎ、1931年には柳条湖付近の鉄道爆破事件(柳条湖事件)が起きました。中国に駐留する関東軍の謀略であることが伏せられたまま日本は満洲各地を軍事占領し、翌年には満洲国を建国します。関東大震災や世界恐慌で経済的に疲弊していた日本では、これら軍事行動の拡大がもたらす軍需景気を歓迎し、軍隊を支持する空気が広がっていきました。

「満洲国」の建国 1932

満洲国は清朝最後の皇帝溥儀を執政として建国されました。建国理念に「王道楽土」と「五族協和」が掲げられましたが、実際は日本の関東軍が絶大な影響力をもつ傀儡国家でした。国際的な反発を招いた日本は1933年に国際連盟から脱退し、世界から孤立していきます。

五・一五事件と二・二六事件 1932/1936

1932年5月15日、政党政治に不満を抱く海軍青年将校らは、政党政治の打倒と国家改造を掲げ犬養毅首相を暗殺しました。また1936年2月26日、陸軍青年将校らが高橋是清大蔵大臣など閣僚・重臣を殺害し、政治の中枢であった永田町一帯を占拠するクーデターを起こします。こうした軍部の台頭により、日本の政党内閣の時代は終わりを迎えました。

華北分離工作と支那駐屯軍

関東軍は満洲国建国以後も、華北を勢力圏におさめる謀略工作を続けました。また義和団戦争以来配置されていた支那駐屯軍も華北に次々と傀儡政権を樹立し、中国本土から分離する工作を続けます。一方、中国国内では対立が続いていた国民党と共産党の間に、日本の侵略を止めるための統一戦線を求める動きが生まれました。


滝川事件と天皇機関説事件 ~学問・思想の弾圧と抵抗 1933/1935

1930年代には、軍部や右翼、帝国議会の議員による政治の主導権争いを背景に学問・思想への弾圧が強まりました。滝川事件では、京都帝国大学教授の滝川幸辰の刑法学説が共産主義的だという理由で文部省が休職処分とし、これに抗議した末川博ら多くの大学教員が辞職しました。また天皇機関説事件では政府が天皇を中心とする国家主義的な憲法解釈を採るなど、学問の自由と大学の自治は大きく後退しました。


日本軍と生物化学兵器~「科学」の名のもとに

関東軍は1936年から1945年にかけて、細菌兵器の開発を目的に満洲各地で人体実験を繰り返しました。関東軍防疫給水部(通称731部隊)の人体実験では、「丸太」や「猿」と呼ぶ中国人捕虜をペスト菌やコレラ菌に感染させたり、凍傷実験などを行っていました。人体実験で開発された731部隊の細菌兵器は、その後実際の戦場でも使用されています。これ以前にも日本軍は1920年代後半から毒ガスも製造しており、台湾の霧社事件や日中戦争で実際に使用しました。


1937 日中戦争と戦火の拡大

第二次世界大戦中、一般市民の死者数が最も多かったのは中国でした。

日本軍は中国戦線で何を行い、日本の民衆は戦争をどのように支えたのでしょうか。

戦争のはじまりと南京戦 ~局地的衝突から全面戦争へ 1937

1937年7月7日に盧溝橋事件が勃発すると、日本は戦争不拡大を決める一方で師団増派を実施し、戦争は華北から上海などに広がっていきました。さらに日本軍は首都の南京を占領しますが、多数の住民と捕虜を虐殺し、国際的な非難をあびます。日本は反ソ連反共産主義戦略のもとドイツ・イタリアといったファシズム諸国との連携を深めて英米を牽制し、日中戦争による満蒙問題の解決を目指していました。


国家総動員体制 ~戦争への動員 1938

日中戦争が始まると、日本は国家総動員法(1938年)を成立させ、戦時総動員体制を構築します。政党の解散や経済の統制が進められ、生活必需品は配給制となりました。とくに1943年以後は「根こそぎ動員」と呼ばれ、女性や中等教育を受ける男女生徒など新たな労働力が軍需工場に動員されました。

国防婦人会

満洲事変の勃発後、大阪の安田せいらが「女性として尽忠報国」を掲げて国防婦人会を結成、割烹着やエプロン姿で婦徳の修養とともに出征兵士の送迎や献金運動を行います。1942年に大日本婦人会に統合されましたが、軍部の意向を受けた銃後の戦争協力婦人団体として戦時体制を支えました。

文化・芸術の動員

総動員体制のもと、文学・美術・音楽・映画に関わる人びとも戦争に動員されました。軍部と政府は検閲や統制などを通じて、文化・芸術の担い手たちに戦争協力を迫りましたが、これに対して作家たちは職域団体を結成し、自主的な統制も強めていきました。作家たちのなかには戦争協力を通じて、文化・芸術ならびに自らの社会的地位を高めたいという思惑もありました。


戦線の拡大と中国の抵抗 ~日本の侵略を止めるために 1937

日中戦争が始まると、中国は国際連盟に日本の不当性を訴えるなど多国間連携の努力を重ねました。またソ連とも不可侵条約を結んで提携を深め、国民党と共産党は抗日民族統一戦線の結成に踏み切りました(第二次国共合作)。中国は首都を南京から武漢、その後は重慶に移し抗日戦争を続けました。日本が何度も繰り返した重慶爆撃は、アジアで最初の都市における無差別爆撃と言われています。

滅掃討作戦(三光作戦) 

戦布告のないまま全面戦争に突入した日中戦争において、日本軍は中国の激しい抵抗に遭い、住民の虐殺や村落の焼打ちなど徹底的な殲滅を目指す苛酷な作戦を展開します。これを中国側は焼光(焼き尽くす)・殺光(殺し尽くす)・搶光(奪い尽くす)の「三光作戦」と呼びました。

日本人民反戦同盟

日本国内での反戦運動が困難となるなか、反戦運動は海外で展開されるようになります。治安維持法違反で検挙された鹿地亘は、中国で捕虜となった日本軍兵士たちと日本人民反戦同盟を結成し、「日本人の自立した立場」による反戦運動を掲げて活動しました。また、アメリカではジャーナリストの石垣綾子が『羅府新報』に反戦コラムを掲載しています。


国語常用運動と創氏改名(改姓名) ~皇民化政策 1937

日本の植民地では、日中戦争前後から皇民化政策が強化されていきました。朝鮮や台湾では国語常用運動など日本語使用のさらなる推進が図られ、日本の家制度に即した氏名への変更を促す「創氏改名」「改姓名」政策が実施されます。また朝鮮では「内鮮一体」のスローガンのもと皇国臣民の誓詞(1937年)が制定され、学校や職場で繰り返し斉唱することが求められました。


1941 アジア太平洋戦争と人びとの動員

アジア太平洋戦争は日本国内だけでなく、植民地・占領地の人びとを動員した「帝国の総力戦」でした。

様々なかたちで動員された人びとの体験を見てみましょう。

ポーランド侵攻 ~第二次世界大戦のはじまり 1939 

第一次世界大戦後、政治的な安定を欠いたヨーロッパでは独裁政治が展開します。1925年にはイタリアで、1933年にはドイツで一党独裁のファシズム政権が確立し、イタリアはエチオピアを侵略、ドイツもチェコスロバキアの一部を併合、そしてオーストリアも併合するなどヨーロッパの緊張は高まりをみせます。さらに1939年に独ソ不可侵条約が結ばれると、ドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦の幕が開きました。

日本の参戦 1941

日中戦争打開のため日本は1940年に日独伊三国同盟を結び、石油などの資源獲得を目指してフランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)に進出します。これに強く反発したアメリカは、軍需物資や石油の対日輸出を禁止する経済制裁を行いました。その後の日米交渉では日本に中国からの撤退などが要求され、拒んだ日本はイギリス・アメリカと開戦、1941年12月8日、陸軍はイギリス領マレーに上陸、海軍は真珠湾を攻撃します。こうして第二次世界大戦に日本とアメリカが参戦することとなりました。


東南アジアの占領と動員 ~戦争の資源を求めて 1942

日本は軍需資源を求めて、1941年12月8日のマレー半島上陸から2カ月余りでシンガポールまで占領しました。1942年にはオランダ領東インド(現インドネシア)やフィリピン、ビルマ(現ミャンマー)を占領し、日本と同盟・協調関係にあった地域を除き東南アジアのほぼすべてが日本軍の占領下に入ります。日本軍は朝鮮人や台湾人、台湾の先住民などを軍属や監視役にし、さらにインドネシア人を「兵補」として動員して占領統治を補助させました。

大西洋憲章と大東亜会議 1941/1943

第二次世界大戦が始まって3年目、1941年8月に英米は戦争目的を「大西洋憲章」にまとめます。戦後の世界秩序を自由貿易や民族自決などの理念に基づき新しく作り直すことを世界に宣言し、これに署名した各国が連合国として日独伊などの枢軸国と戦いました。これに対し日本は、1943年11月に東京で大東亜会議を開催し、戦争目的に「大東亜共栄圏」の確立を掲げました。

「大東亜共栄圏」の実態

日本は「アジア各地を欧米の植民地支配から解放する」という目的を掲げて東南アジアに進軍しましたが、実際は戦争資源の獲得を目的とした方便に過ぎませんでした。1943年、日本は東南アジア各地の民族指導者らからの協力を得るため、ビルマとフィリピンに形式的な「独立」を認めました。しかしその後も、日本に対するフィリピン住民のゲリラ活動や、フランス領インドシナの抗日運動などが根強く続きます。


植民地の動員と強制労働 ~帝国の総力戦 1939

戦時下の労働力不足のため日本政府は1939年に「労務動員実施計画」を決め、朝鮮から労働者を日本の炭坑や鉱山に動員していきます。そのやり方は次第に強制的なものとなり、1944年には完全な強制動員となりました。朝鮮から日本・満洲・樺太・南洋群島などに約90万人、朝鮮内では約400万人と推定される人びとが動員されます。また台湾でも軍夫や軍属、作業員として多くの人びとが東南アジア各地に動員されました。

朝鮮・台湾の徴兵制 1944/1945

戦局の悪化により、日本政府は兵役の義務が免除されていた植民地からも兵士を出すことを求めます。当初は志願兵の形でしたが、朝鮮では1944年、台湾では1945年に徴兵制が実施されました。


女性の動員 ~女性たちの銃後と戦場 1945

英米ソの連合国では女性兵士が動員されますが、日独伊の枢軸国では女性は「産む性」と位置づけられ、なかでも日本では、既婚女性は女性団体での兵士の支援、未婚女性は軍属や勤労動員で奉仕すると分けられていました。しかし、戦局の悪化した1945年に設けられた義勇兵役法や国民義勇戦闘隊では、女性も兵士となるよう求められ、国民は憲法の兵役義務は男女の義務だったことを初めて知ることになります。

日本軍「慰安婦」 1932-1945

1932年の上海事変から1945年まで、日本兵によるレイプ防止や性的享楽の提供を目的とした軍慰安所が戦地および占領地に設置されます。「慰安婦」とされた女性たちは、日本人を含め植民地の朝鮮・台湾、占領地の中国・東南アジア・オランダ領東インド(インドネシア)から移送されましたが、とくに植民地や占領地では、誘拐や人身売買も横行しました。また慰安所は陸軍では将兵に日用品などを売る酒保の付属施設とされ、女性たちはモノのように扱われていました。


学徒出陣と立命館 ~ペンを銃に持ちかえて 1943

国家総動員体制のもと、学生や生徒たちも戦争に動員されていきます。1943年10月には「在学徴集延期臨時特例」の公布により、それまで兵役を猶予されていた大学・専門学校の学生・生徒たちが軍隊に徴集されることになりました。立命館大学は約3000人の学生を戦地へと送り出し、軍隊に志願しない朝鮮・台湾出身の学生を除名(除籍)処分としました。


1945 第二次世界大戦の終結と傷跡

第二次世界大戦がもたらした惨禍は、人びとにどのような傷跡を残したのでしょうか。戦争の傷跡を抱えながら生きた人びとの姿を通して、考えてみましょう。

イタリア・ドイツの降伏~ヨーロッパにおける戦争の終結 1945

1939年、ポーランドに侵攻したドイツはイタリアと同盟を結び(枢軸国)、イギリス・フランス・ソ連など(連合国)に対して優勢に立ちました。しかし1942年頃からアメリカの参戦を得た連合国が反撃に転じ、1943年にはイタリアを降伏させ共同参戦国とします。さらに、勢いを増した連合国はドイツ各地への爆撃を本格化させ、独ソ戦では1943年7月のクルスクの戦いで攻守を逆転させ、ヨーロッパ各地からドイツ軍を追い出しました。1945年4月28日にはイタリアのムッソリーニが処刑され、2日後の30日にはドイツのヒトラーも自殺しました。5月8日、ヨーロッパにおける第二次世界大戦は終結を迎えます。

ホロコースト

ドイツのヒトラー率いるナチス政権は、協力者とともにヨーロッパ各地でユダヤ人を組織的に連行し、虐殺しました。また同じくナチスに迫害され、収容所に送られた同性愛者、シンティ・ロマ、障がい者、そして政治的・思想的に異なる人びと等も多数犠牲となりました。これをホロコーストと呼びます。


日本の敗退 ~先延ばしされる終戦 1945

日本軍はミッドウェー海戦やガダルカナル島の戦い以降、太平洋での戦局の主導権を失います。1944年のマリアナ沖海戦での敗北、サイパン島陥落によって日本軍が防衛上死守すべき圏域と定めた絶対国防圏が崩れ、レイテ島決戦の敗退後、日本は本土決戦による一撃講和を構想します。そのための時間稼ぎとして硫黄島の戦いや沖縄戦を位置づけましたが、それらの地域での全面的な敗北後、1945年8月に広島・長崎へ世界で初めて原子爆弾が投下されました。さらにソ連の参戦を受け、追い込まれた日本はついに降伏することとなります。

戦場での餓死・病死

日中戦争から終戦までの日本の軍人・軍属の死者は230万人にのぼりました。日本軍の戦線は南太平洋から東南アジアにまで拡大していきましたが、補給を軽視したうえに補給路を連合軍に断たれたため、食糧や医薬品が届かないまま多くの人びとが餓えや病気で倒れていきました。その数は死者全体の半数以上を占めるほどでした。

サイパン島「玉砕」 1944

日本の絶対国防圏の一角をなすサイパン島は1944年6月15日からアメリカ軍に攻撃されますが、大本営は早々に島を放棄、サイパン守備隊は「玉砕」(全滅)に追い込まれます。サイパンに出稼ぎに来ていた日本人や、軍需産業に動員されていた朝鮮人も投降を許されず「玉砕」を強いられ、また、現地住民のなかには日本兵にスパイとして銃殺された人もいました。

無差別爆撃による被害 1945

日本軍による重慶爆撃と同様に、連合国軍も都市への無差別爆撃を繰り返しました。連合国軍は、1945年2月にドイツ東部のドレスデンで夜間無差別爆撃を行います。同年3月10日の東京大空襲では、一夜にして10万人近い人びと(朝鮮や台湾の人びとを含む)が焼夷弾などによって殺傷されました。

沖縄戦と一般住民 1945

1945年3月に慶良間諸島、4月に沖縄島中部に上陸したアメリカ軍は沖縄島を南北に分断し、追い詰められた日本軍は6月23日の司令官自決により組織的な戦闘を終えます。地上戦以前から皇民化教育のなかで「捕虜になるくらいなら一人でも敵を殺して自決せよ」と教えられてきた住民は、日本兵からも「捕虜になると残虐な殺され方をする」「投降しようとするなら殺す」などと脅された結果、集団自決が多発しました。逃げ場を失い、家族や親族に手をかけるよう強いられた人びとは、生涯癒えることのない傷を負いました。

無条件降伏 1945

1945年7月、ドイツの降伏を受けた連合国が無条件降伏などを条件としたポツダム宣言を示しましたが、鈴木貫太郎内閣はこれを「黙殺」しました。その結果、8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆が投下されます。ソ連も対日参戦したため、8月14日、日本は昭和天皇による「聖断」でポツダム宣言を受諾、9月2日には降伏文書に調印しますが、その後も沖縄や樺太など戦闘が続いた地域もありました。


 

テーマ展示

十五年戦争の加害と被害

戦争が始まるとどうなるの?

日本は満州事変からアジア太平洋戦争まで、足かけ15年におよぶ侵略戦争を起こしました。この十五年戦争において、日本は戦場となった中国や東南アジア、南太平洋などの各地に様々な戦争の傷跡を残すこととなりました。また、総力戦体制のもとで、戦場の兵士だけでなく、銃後の女性や子ども、植民地の人びとまでもが戦争に協力させられました。わたしたちは戦争の時代を生きてきた人たちから、「戦争だけはやってはいけない」という言葉を何度も聞いてきました。ではなぜ戦争をしてはいけないのでしょうか。戦争が始まるとどうなるのか、戦争を生きた人びとの声に触れて想像してみましょう。

銃後の生活

戦争中の日本では、戦争の役に立つことが全国民に求められました。町内会・部落会・隣組が行政の最末端組織として整備され、債券の購入や貯蓄の割り当て、配給などをとりしきり、人びとはお互いに監視し合いながら戦争に協力しました。また青壮年男性の出征による労働力不足を補うため、女性や学生、さらに子どもや植民地の人びとも軍需工場などに動員されました。人びとは戦争に勝つことを願って、勤労動員や貧窮生活に耐えました。

銃後から戦場へ

兵役法の下、青壮年男性は現役徴集や召集により戦場に送られました。少年たちも日頃から軍人を志すように勧められ、女性も含めて軍事教練が行われていました。従軍看護婦やメディア関係者など軍属として戦場に赴く人もありました。戦争末期には、学徒兵や少年兵が充分な訓練もないまま、戦場に投入されました。十五年戦争では約230万人の軍人・軍属が亡くなったほか、負傷者も多く生み出しましたが、その死や負傷は「名誉」と讃えられ、遺族や傷痍軍人は、その悲しみや苦しみを表には出せませんでした。

戦場の記憶

日本軍兵士たちは、中国などの戦地に着くと、敵兵だけでなく民間人や捕虜までも殺害し、女性の強姦や財産の強奪を重ねました。日本軍が武器や食料・医薬品などの補給を軽視していたこともあり、戦死のみならず餓死や戦病死で斃れていく日本兵も少なくありませんでした。戦争末期には銃後も戦場と化し、南洋や沖縄・満洲・樺太などでは住民を巻き込んだ地上戦が行われ、台湾や朝鮮半島、本土も空襲を受けました。「助けを求めた人を殺してしまった」「大切な家族を奪われた」──戦争の記憶は戦後も人びとを苦しめ続けました。

捨てざるを得なかった良心
鈴木良雄

鈴木良雄さんは、1941年9月に山東省萊蕪県の集落で初めて民家を焼き払いました。当時日本軍は「掃討作戦」と称して敵軍に通じるとみなした住民を殺害したり、「現地徴発」の名目で民家から食糧や物資を略奪していました。貧しい農村で生まれ育った鈴木さんは、幼い頃より「軍隊で出世して将校になりたい」と夢見ていたといいます。そして実際に鈴木さんはこの出来事を転機として、敗戦時までに一等兵から曹長へと昇進を重ねていきました。鈴木さんは戦後その罪責感から、このとき焼き殺してしまった中国の人たちのことを何度も話すようになりました。そして手記には「戦争こそ、この世の地獄です」と書きつけていました。

中国戦線における日本軍の加害

1937年以降、中国戦線にはのべ数百万人におよぶ日本軍兵士が派遣されました。しかし彼らの中国戦線での戦争体験は、その多くが残虐な加害性をともなっていたこともあり、戦後家族にさえ語りにくいものとなっていました。1980年代には、こうした日本人の加害性を欠いた戦争体験の記憶に対して、アジアの戦争被害者たちから批判の声が挙がります。1981年から始まる「平和のための京都の戦争展」運動をはじめ、日本社会のなかでもそうした被害者の声に向き合い、自分たちの戦争体験の加害性を見つめなおす動きが各地でみられるようになっていきました。

癒えることのない傷を抱えて
尹昌宇

1942年8月20日、当時14歳だった尹昌宇さんは、江原道淮陽郡から列車に乗せられて、他の少年たちとともに日本窒素肥料興南工場へと連れて行かれました。戦時中、日本は労働力不足を補うために、朝鮮人を各地の炭鉱や工場などに強制連行しました。アジア太平洋戦争がはじまると軍需工場に指定された日本窒素肥料興南工場は、杜撰な安全管理のもとで、多くの朝鮮人を「消耗品」のように働かせました。そのなかで1943年9月15日、尹さんは工場内の硝酸爆発事故により意識不明の重体となり、片目まで失うこととなります。このとき全身に負った大火傷の痕は、尹さんを長らく苦しめ続けました。祖国が解放されてからも尹さんは、こうした日本の植民地支配による癒えることのない傷を抱えながら生きていました。

戦争資源と労働力動員

戦争は多くの鉱山資源を必要とします。当時戦車や大砲などに使う鋼鉄の原材料となるマンガンの鉱山が日本一多かった京都・丹波地域では、その採掘量でも日本一を誇りました。この丹波マンガン鉱山には、朝鮮半島から強制連行された人だけでなく、戦前に労働者として渡日した人などを含めて約3000人におよぶ朝鮮人が働いていました。アジア太平洋戦争の下で日本に連れて来られた人のなかには、戦後も帰国することがかなわず、日本でくらし続けなければならなかった人たちもいました。

戦場で奪われた幼い命
北村登美

1945年3月26日、慶良間諸島にアメリカ軍が上陸した際に起きた渡嘉敷島の「集団自決」で、北村登美さんは長女の恒子さん(8歳)と次女の則子さん(5歳)を失いました。「玉砕場」では、「天皇陛下万歳」の号令のもとで集団死が強制されていました。登美さんはそのただなかで、則子さんの「お母さん、こわいよー、こわいよー」という助けを求める声に、はっと我に返ったといいます。地上戦となった沖縄では住民の多くが戦闘に巻き込まれ、12万人以上の人びとが犠牲となりました。日本軍による集団自決の強制をはじめ、沖縄戦の経験は、人びとに「軍隊は住民を守らない」などの様々な教訓を与え、現在にいたるまでその記憶は生き続けています。

沖縄戦と集団自決

日本軍は沖縄で兵士のみならず住民が投降して捕虜になることも許しませんでした。沖縄では「軍官民共生共死」が掲げられ、捕虜になることは恥であるという教育がされていました。上陸したアメリカ軍との戦闘で追い込まれた住民たちは、日本軍が配布した手榴弾やときに自分たちの生活用品や農具などを用いて、家族や親類そして自分自身の命までも奪うことを強いられました。