植民地の動員と強制労働

帝国の総力戦 1939

戦時下の労働力不足のため日本政府は1939年に「労務動員実施計画」を決め、朝鮮から労働者を日本の炭坑や鉱山に動員していきます。そのやり方は次第に強制的なものとなり、1944年には完全な強制動員となりました。朝鮮から日本・満洲・樺太・南洋群島などに約90万人、朝鮮内では約400万人と推定される人びとが動員されます。また台湾でも軍夫や軍属、作業員として多くの人びとが東南アジア各地に動員されました。

1939ねん、ショクミンチノドウイント、キョウセイロウドウ   テイコクノソウリョクセン、  センジカノロウドウリョクブソクノタメ、ニホンセイフは、1939ねんに、「ロウムドウインジッシケイカク」をきめ、チョウセンカラロウドウシャヲ、ニホンノタンコウヤ、コウザンニ、ドウインシテイキマス。そのやりかたは、シダイニ、キョウセイテキナモノトナリ、1944ねんには、カンゼンナ、キョウセイドウイントナリマシタ。チョウセンカラ、ニホンヤ、マンシュウオヨビ、カラフト、ナンヨウグントウナドニ、ヤク、90マンニン、チョウセンナイデは、やく、400マンニント、スイテイサレルヒトビトガ、ドウインサレマス。また、タイワンデモ、グンプヤ、グンゾク、サギョウイントシテ、オオクノヒトビトガ、トウナンアジアカクチニ、ドウインサレマシタ。

年表展示(1941年 アジア太平洋戦争と人びとの動員)