尹昌宇さん 朝鮮・江原道(1928年生まれ)

1942年8月20日、当時14歳だった尹昌宇さんは、江原道淮陽郡から列車に乗せられて、他の少年たちとともに日本窒素肥料興南工場へと連れて行かれました。戦時中、日本は労働力不足を補うために、朝鮮人を各地の炭鉱や工場などに強制連行しました。アジア太平洋戦争がはじまると軍需工場に指定された日本窒素肥料興南工場は、杜撰な安全管理のもとで、多くの朝鮮人を「消耗品」のように働かせました。そのなかで1943年9月15日、尹さんは工場内の硝酸爆発事故により意識不明の重体となり、片目まで失うこととなります。このとき全身に負った大火傷の痕は、尹さんを長らく苦しめ続けました。祖国が解放されてからも尹さんは、こうした日本の植民地支配による癒えることのない傷を抱えながら生きていました。

ユンチャンウサン チョウセン、カンウォンド、(センキュウヒャクニジュウハチネンウマレ) センキュウヒャクヨンジュウニネンハチガツハツカ、トウジジュウヨンサイダッタ、ユンチャンウサンは、カンウォンドフェヤングンカラ、レッシャニノセラレテ、ホカノショウネンタチトトモニ、ニホンチッソヒリョウフンナムコウジョウエト、ツレテイカレマシタ。センジチュウ、二ホンは、ロウドウリョクブソクヲオギナウタメニ、チョウセンジンヲ、カクチノタンコウヤ、コウジョウナドニ、キョウセイレンコウシマシタ。アジアタイヘイヨウセンソウガハジマルト、グンジュコウジョウニ、シテイサレタ、ニホンチッソヒリョウフンナムコウジョウは、ズサンナアンゼンカンリノモトデ、オオクノチョウセンジンヲ、「ショウモウヒン」、ノヨウニ、ハタラカセマシタ。ソノナカデ、センキュウヒャクヨンジュウサンネンクガツジュウゴニチ、ユンサンは、コウジョウナイノ、ショウサンバクハツジコニヨリ、イシキフメイノジュウタイトナリ、カタメマデ、ウシナウコトトナリマス。コノトキ、ゼンシンニオッタ、オオヤケドノアトは、ユンサンヲ、ナガラク、クルシメツヅケマシタ。ソコクガ、カイホウサレテカラモ、ユンサンは、コウシタ、ニホンノショクミンチシハイニヨル、イエルコトノナイキズヲ、カカエナガライキテイマシタ。

テーマ展示(癒えることのない傷を抱えて)