鈴木良雄さんは、1941年9月に山東省萊蕪県の集落で初めて民家を焼き払いました。当時日本軍は「掃討作戦」と称して敵軍に通じるとみなした住民を殺害したり、「現地徴発」の名目で民家から食糧や物資を略奪していました。貧しい農村で生まれ育った鈴木さんは、幼い頃より「軍隊で出世して将校になりたい」と夢見ていたといいます。そして実際に鈴木さんはこの出来事を転機として、敗戦時までに一等兵から曹長へと昇進を重ねていきました。鈴木さんは戦後その罪責感から、このとき焼き殺してしまった中国の人たちのことを何度も話すようになりました。そして手記には「戦争こそ、この世の地獄です」と書きつけていました。
- エリア 十五年戦争
- テーマ 十五年戦争の加害と被害
- 解説TOP 捨てざるを得なかった良心
鈴木良雄さん 埼玉県(1916年生まれ)
スズキヨシオサン、サイタマケン、(センキュウヒャクジュウロクネンウマレ)
スズキヨシオサンは、センキュウヒャクヨンジュウイチネンクガツニ、サントウショウ、ライブケンノシュウラクデ、ハジメテミンカヲヤキハライマシタ。トウジ、ニホングンは、「ソウトウサクセン」、トショウシテ、テキグンニツウジルトミナシタジュウミンヲ、サツガイシタリ、「ゲンチチョウハツ」、ノメイモクデ、ミンカカラ、ショクリョウヤ、ブッシヲ、リャクダツシテイマシタ。マズシイノウソンデウマレソダッタ、スズキサンは、オサナイコロヨリ、「グンタイデ、シュッセシテ、ショウコウニナリタイ」と、ユメミテイタトイイマス。ソシテ、ジッサイニ、スズキサンは、コノデキゴトヲテンキトシテ、ハイセンジマデニ、イットウヘイカラ、ソウチョウエト、ショウシンヲカサネテイキマシタ。スズキサンは、センゴ、ソノザイセキカンカラ、コノトキ、ヤキコロシテシマッタ、チュウゴクノヒトタチノコトヲ、ナンドモハナスヨウニナリマシタ。ソシテ、シュキニは、「センソウコソ、コノヨノジゴクデス」と、カキツケテイマシタ。