北村登美さん 沖縄県(1912年生まれ)

1945年3月26日、慶良間諸島にアメリカ軍が上陸した際に起きた渡嘉敷島の「集団自決」で、北村登美さんは長女の恒子さん(8歳)と次女の則子さん(5歳)を失いました。「玉砕場」では、「天皇陛下万歳」の号令のもとで集団死が強制されていました。登美さんはそのただなかで、則子さんの「お母さん、こわいよー、こわいよー」という助けを求める声に、はっと我に返ったといいます。地上戦となった沖縄では住民の多くが戦闘に巻き込まれ、12万人以上の人びとが犠牲となりました。日本軍による集団自決の強制をはじめ、沖縄戦の経験は、人びとに「軍隊は住民を守らない」などの様々な教訓を与え、現在にいたるまでその記憶は生き続けています。

センキュウヒャクヨンジュウゴネン、サンガツニジュウロクニチ、ケラマショトウニ、アメリカグンガジョウリクシタサイニオキタ、トカシキトウノ「シュウダンジケツ」デ、キタムラトミサンワ、ハッサイノチョウジョ、ツネコサント、ゴサイノジジョ、ノリコサンヲウシナイマシタ。「ギョクサイジョウ」デワ、「テンノウヘイカバンザイ」ノゴウレイノモトデ、シュウダンシガキョウセイサレテイマシタ。トミサンワ、ソノタダナカデ、ノリコサンノ「オカアサン、コワイヨー、コワイヨー」トイウタスケヲモトメルコエニ、ハットワレニカエッタトイイマス。チジョウセントナッタオキナワデワ、ジュウミンノオオクガ、セントウニマキコマレ、12マンニンイジョウノヒトビトガギセイトナリマシタ。ニホングンニヨルシュウダンジケツノキョウセイヲハジメ、オキナワセンノケイケンワ、ヒトビトニ「グンタイワジュウミンヲマモラナイ」ナドノサマザマナキョウクンヲアタエ、ゲンザイニイタルマデ、ソノキオクワイキツヅケテイマス。

テーマ展示(戦場で奪われた幼い命)