帝国と人の移動

内地と外地の移動 1910

日朝修好条規(1876年)で日本が朝鮮を開国させると、釜山に日本人居留地が形成され、商人を中心に多くの日本人が移住し始めました。日清・日露戦争を経て植民熱は加速し、1910年の韓国併合時には在留日本人は約17万人にのぼり、朝鮮総督府の統治のもと日本人が朝鮮人より優越的な地位につきました。一方、土地調査事業などで土地を失い困窮した朝鮮人農民の多くは、日本や満洲への移住を余儀なくされました。

1910ねん、ていこくとひとのいどう   ないちとがいちのいどう、  1876ねんの、にっちょうしゅうこうじょうきで、にほんがちょうせんをかいこくさせると、ぷさんに、にほんじんきょりゅうちがけいせいされ、しょうにんをちゅうしんに、おおくのにほんじんが、いじゅうしはじめました。にっしん、にちろせんそうをヘて、しょくみんねつわかそくし、1910ねんのかんこくへいごうじには、ざいりゅうにほんじんは、やく、17まんにんにのぼり、ちょうせんそうとくふのとうちのもと、にほんじんが、ちょうせんじんよりゆうえつてきな、ちいにつきました。いっぽう、とちちょうさじぎょうなどで、とちをうしないこんきゅうした、ちょうせんじんのうみんのおおくは、にほんや、まんしゅうへのいじゅうをよぎなくされました。

年表展示(1914年 第一次世界大戦と戦後の変化)